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ワシリー聖堂


[はじめに]

未知の国ロシアに行ってみたい願望を持っていたが、その願いが実現して、「イルクーツク、サンクト・ペテルブルグ、モスクワを巡る7泊8日の旅」のツアー旅行に9月5日から9月12日迄参加した。なかでも2003年の今年、建都300年のサンクト・ペテルブルグの「エルミタージュ美術館」とエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」は是非見てきたいと思って旅立った。旅は好きで海外旅行にはよく出かけるが、娘や女性友達と行くことが多く今回は結婚40年記念の年で夫と一緒に。

はじめ鹿児島発着のチャーター便の予定が、私の行く9月便は日露航空協定に抵触とのことで国土交通省の許可が下りず、関空発着のウラジオスットック航空・臨時便でウラジオストック(実際はイルクーツク)からロシア入りした。

出発前に鹿児島の11月頃の気候と聞いていたが、9月の気候も日本とさほど変らず、旅行中好天に恵まれ、ジャケット1枚で充分であった。8月に参加した人たちは、この夏ヨーロッパの異常な暑さの影響でモスクワも暑かったらしい。

ロシアに関するガイドブックは書店にも殆どなく、体制が変わって、サービス面ではまだまだとも言われているが、ソ連時代が長く、ロシアに行った人は未だ少数と思い、短い期間に垣間見たロシアの旅・初体験を、拙い文で私流に書いてみます。

[イルクーツク] (写真1)(9/5〜9/6)

2003年9月5日()ウラジオストック航空(臨時便)で関西空港発 15:40 ロシア旅行へ(7泊8日)出発

関空から飛び立って2時間ぐらいしたところで、機内アナウンスでウラジオストックを経ず、イルクーツクへ直行と放送があった。ロシア国内に入って日本の航空管制外になるとパイロットの裁量でという乗客の声も聞こえたが、臨時便ではあるが本当にそんなことが出来るのだろうか?と思った。機体はオンボロだったが、パイロットの操縦は、確かで上手く機内の揺れは全然なかった。機内サービスは過剰なくらいで、離陸前から飴やつまみが配られ、飲み物は頻繁にサービスされた。5時間でイルクーツク着。時差1時間。

イルクーツク市は世界最深の淡水湖バイカル湖南端に位置し、アンガラ川をはさんで市は2分されており、イルクーツク州都で東シベリアの経済・文化の中心地。かっては貴族の流刑の地であり、第2時世界大戦後は、日本捕虜の抑留地となった。

市は建都300年で、街路樹が美しく路面電車やトロリーバスが走っている。街を外れると森林が多い。ガイドの説明によると、タイガは“森の海”を意味し松が多い。シベリア松は丈60mあるものもあり赤松は家具、落葉松は家を作る。木材の産地で木造の家が多いそうで、街の表通りは石造りも増えているという。

バイカル湖へ行く車窓から見た、両側の沿道に延々と続く朝霧にかすんだ白樺林は、薄ぼんやりとして幻想的な感じさえした。白樺をこんなにまとめてたっぷり見たのは初めてのことで、辺りに山は見えず広大なシベリアの大地が広がっている。

バイカル湖は(琵琶湖の約50倍、世界最深で透明度もよい)300以上の川が流れ込み、流れ出ているのはアンガラ川だけで、 もうまるで海そのもの。そのアンガラ川は、北極海へ流れ出るエニセイ川に続くという。湖の向こう岸は何も見えず、わずかに空と湖面の境がわかるだけ、モーターボートが走ったり、釣り糸を垂れている小船が浮かんでいたり、ゆったり時が流れていくようだ。日差しが強く、上半身裸で湖畔にいる若者達を見たりすると、冬季に凍ることを俄かに信じ難い気がした。すぐ雨になったり、天気が変わりやすい所だそうで、バイカル湖が見えないことも多いという。傘を持参すよう言われたが、この日は最高の天気に恵まれた。

水中翼船に乗り、バイカル湖を1時間ほど遊覧して、アンガラ川を通ってイルクーツク市まで戻る。船内でロシア民謡が聞こえるので、テープを流しているのかと思ったら、ちょっと腹の出た恰幅のいい初老のおじさんが(本業はカメラマン)、アコーディオンを弾きながら、趣味で旅人を慰める為に歌っているという。

バイカル湖畔近くの小高い所にある日本人墓地に行ったが、石碑は碑銘もなく、近くに「友よ安らかに眠れ」の墓標があるだけの寂しいものだった。ガイドの説明では日本へ移した人も多いと言うことだった。現地の人の墓も同じ所にあり、墓の柵の外はジャガイモ畑で家族総出で芋掘りをしていた。

翌日散歩している時、ホテル側の川沿いから、運良くシベリア鉄道の長い列車(モスクワ〜ウラジオストック間を1週間かけて走る、20〜30車輌ぐらい連結していただろうか?)が、対岸のイルクーツク駅を通過する所に遭遇した。車輌の長さは、写真に収まらず、黒い一筋の動く線のように見えた。偶然とはいえ、ラッキーでした。もう少し若く体力があり、時間にゆとりのある旅ならば、シベリア鉄道にも乗ってみたいところです。又、橋を渡って正面からのイルクーツク駅も見た。

アンガラ川の堤防の辺りは、地元の人も散歩したり、パラソルの下で酒を飲んだり、若者のバンド演奏が聞こえたり、短い夏を楽しんでいるように見える。

イルクーツク市内、木造建築博物館、バイカル生態博物館などを見学・観光。

【ホテル】

イルクーツク駅の対岸側で、ガガーリン通りに面した「バイカルホテル」。部屋は手狭だったが、部屋の設備は衛星放送、国際電話、冷蔵庫があり、ホテルにはサウナ、バー、郵便局、カジノ等の設備も有り。

【食事】             

ロシア料理で先ず思いつくのはボルシチ、ピロシキ、ロシアン紅茶等である。何れも日本人のイメージする料理とは違っていた。

ボルシチ 細かく刻んだ野菜と薄切りのタン入りのさっぱりした味。
スープはビーツの色で赤く、サワークリーム添え。
ピロシキ ジャム入りでデザートとして食べる。
ロシアン紅茶 紅茶にジャムを入れて飲む習慣はない。


逆にガイドさんは日本へ行った時、驚いたと言っていた。日本語が上手く、今年も5ヶ月間日本で勉強してきたという。

バイカル湖に淡水魚が多いからか、魚料理が多く現地名でオムリの塩漬け・焼き魚、ウハのスープなど。苔桃のジュース(始めビーツの赤い色かと思った)、又デザートに苔桃・グミ(黄色い小粒)・蜂蜜少しと一緒に生で出たが、珍しく甘酸っぱくて美味しかった。

食事のメニューはどこも大体同じパターンで

サラダ、前菜(有ったり、無かったり)、スープ、メインディッシュ、デザート、コーヒー又は紅茶

の順でサーブされた。朝食はバイキンク方式。

【ショッピング】

1ルーブルは4円で換算。ロシアでは米ドルが強く、ルーブルの価値は下がっている。日本ではルーブルに交換できないということで、日本で円を米ドルにexchangeして持って行き、必要に応じてドルをルーブルに換えて使った。ルーブル、米ドルどちらでもよい所が多く、場所によっては日本円も使えた。現地のスーパーマーケットに行ったが、観光客が行くみやげ物店よりず〜っと安く感じた。物価は安く商品も豊富にある。生鮮食料品(魚肉類)を見てみたかったが、ここにはなかった。チョコレートなどはみやげ物店の半値ぐらいだった。

[サンクト・ペテルブルグ]  (写真2)(9/7〜9/8)

イルクーツクから、シベリア航空でサンクト・ペテルブルグ(ブールコヴォ空港着)へ。国内線でロシアの一般乗客も乗り合わせる。日本との時差5時間。

サンクト・ペテルブルグは「ピョートル大帝の町」という意味で、ソ連時代はレニングラードと呼ばれていた都市である。フィンランド湾に流れ出るネヴァ川のデルタ地帯に発達した町で、運河と川と100以上の島があり、橋によって結ばれ、“北のヴェニス”と呼ばれる水の都。帝政ロシア時代200年間首都だった所で、政治、経済、文化、芸術の中心として発展した。人口470万人。

中心部はヨーロッパ様式(特にオランダ)を取り入れたバロック、クラシック洋式建築が多い。今年は建都300年で、エカテリーナ宮殿の「琥珀の間」が復元し、TVなどで放映されたりして話題になった。運河は、バルト海からネヴァ川に逆流した水を、またバルト海へ戻す巡り(めぐり)運河になっている。ネヴァ川に架かっている橋は全部跳ね橋で、夏の間は夜間1時〜5時まで中央だけ開き、船でモスクワまでも行けるという。またイギリスやヨーロッパからクルーズ船も来るそうで、川岸に係留されているイギリスの船を見た。6〜7月の白夜の頃、遊び過ぎた若者達が橋が閉まって帰れなくなったりするという。冬期は川は凍ってしまう。

サンクト・ペテルブルグの銀座通り「ネフスキー大通り」は、ゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキーの作品にも登場する所で、19世紀半ばの姿をそのまま残す。この通り界隈には見どころが多く、カザン聖堂、エカテリーナU世の記念像、劇場など昔のサンクト・ペテルブルグの名残が残っているという。残念ながら、通りをゆっくり歩いてみる時間はなかったが、レストランで夕食をしたことと、アレクサンドリンスキー劇場(旧プーシキンドラマ劇場)でバレー「白鳥の湖・4幕」を見たことは、強烈な印象として残っている。

夕食をしたレストランは「ネフスキー大通り」の斜向かいで、1Fにはペンを執っているプーシキンのマネキン像が有り、階段を上っていくと、チャイコフスキーのピアノ曲のピアノ演奏が聞こえてきた。席に着き料理を待っている間も、イヴ・モンタン似のピアニストがシャンソン、ロシア民謡、日本の曲(さくらさくら、荒城の月など)を次々に演奏。

しばらくして歌姫が登場、「アヴェ・マリア」を透明感のある声でしっとりと歌う。そしてオペラ「トスカ」のアリア“歌に生き、恋に生き”を聴き終わった時は、感動して、思わず“ブラボー!”と声をあげてしまった。「カルメン」の“ハバネラ”などもさらりと歌い、食事もそぞろで聴き入ってしまった。「ロシア民謡・カリンカ」も女性の声で力強く歌った。充たされた、心に残る「サンクト・ペテルブルでのディナー」となる。テーブルの窓越しに運河も見え、外は、通り行く人が判る明るさで、大勢の人が行き交い、遅い日没までの時間を楽しんでいるようにみえた。

翌日はバレー「白鳥の湖」4幕を、さほど広くない、ロシアでも古い劇場「アレクサンドリンスキー劇場」で鑑賞。バレーの本場で、本場の劇場で見ることが出来て、美しい踊りに魅了された。さすが、ヨーロッパの雰囲気のある「サンクト・ぺテルブルク」は芸術の都である!!

車窓からカザン聖堂、ペトロパヴロフスク要塞(サンクト・ペテルブルグ発祥の地)、ペテロパヴロフスク聖堂、ロストラの灯台柱(ネヴァ川を見守ってきた昔の灯台)等を見てホテルへ。

市内のおもな見どころは

【デカブリスト広場(元老院広場)の「青銅の騎士像」】

「サンクト・ペテルブルグ」生みの親とも言われる、ピョートル大帝像。北方戦争で、スエーデンとの長い戦いに苦しみ、勝利して、スエーデンの方角を向いて建っているという、前足掲げた乗馬姿像。エカテリーナU世(ドイツ出身の女帝)が、自分がピョートル大帝の後継者であることを誇示するため造らせた。彼女はクーデターで、自分の夫ピョートル3世を廃して、即位した権力志向の強い女帝であったが(生涯で12人の愛人を擁したともいわれる)、教育制度は整備したという。ふと清朝の西太后と思い比べていた。

【イサク聖堂】

ロシア正教の聖堂。ロシア正教独特の「葱坊主型ドーム」の、金色円屋根の悠然とした教会は、世界でも3番目に大きな聖堂といわれ、帝政時代の威容を誇示しているようだ。ロシア正教の特徴はイコン画(聖像)が飾られていることだ。大理石1つをとって3カ国のものが(シリア、アフガニスタン、イタリア産)使ってある。現在は、ミサは年2回しか(クリスマスとイースター)行われていないそうだ。内部は修復中のところもあり、未だソ連時代の宗教弾圧の影を落しているようだ。

【エカチェリーナ宮殿】

現プーシキン市、かってはツァールスコエ・セロ(皇帝の村)と呼ばれたサンクト・ペテルブルグの南郊、車で1時間の所にある。ピョートル大帝が皇妃エカチェリーナのために建てたロシアバロック様式の宮殿。18世紀末、大黒屋光太夫がロシアに漂流・漂着した時、この宮殿でエカテリーナ女帝に拝謁し、帰国許可を得た。第2次世界大戦で、ドイツ軍によって宮殿は破壊され金箔や琥珀はすべて略奪された。建都300年の今年、「琥珀の間」が復元・完成して話題となりギャラリーも多い。屋根など未だ修復中のところも目にとまった。

人数を区切って入場制限しており、門に入るまで1時間、中に入るまで更に1時間待った。これでも短い方で、合わせて4時間待ったヨーロッパからの観光客もあったそうだ。冬は雪が深く来る人もいないそうで、その分夏場の観光シーズンは混み合うのだろう。雨の日でなくよかった。

宮殿はバロック様式、外壁が白・トルコブルー・金箔の色が際立つ建物で、澄みきった初秋の空を背に映えている。中に入ると、床を傷つけないように靴カバーを履くよう指示される。床は寄木細工で張られており、さまざまな模様に陰陽影があり、実に見事で、石張りと違い温かい感じがした。宮殿内カメラ撮影料、50ルーブル(200円)。

晩餐会、舞踏会、謁見などに使われた「大ホール」の内装は、金箔を施した木彫でリンデン材(菩提樹の木)で出来ており、木材の豊富なロシアならではと思った。木彫に金箔を施した、飾り棚や椅子、タイル画のペチカ、ロマノフ王朝の肖像画、儀礼用の食器セットなど目を惹く。

なんといっても一番の見どころは、今年復元した「琥珀の間」である。

修復作業は、サンクト・ペテルブルグ300年祭に寄せて30年の年月をかけて行われた。

「琥珀の間」は、内装すべてに琥珀が使われており、壁面4面に『人体の五感の寓意』を主題とする、「視覚」、「聴覚」、「知覚」、「味覚と嗅覚」の4枚のフローレンスモザイク画がはめ込まれている。精緻な琥珀細工を、絶妙なセンスで内装に取り込んであり、あまりの美しさに言葉を失い、見蕩れていた。もっと壁面近くまで寄って、じっくり見たかったが、見学客が多く、時間もなく残念!!

【エルミタージュ美術館】

エルミタージュ美術館の前が宮殿広場で、広場にはナポレオン戦争(1812年)勝利を記念して建てられたアレクサンドルの円柱が立っている。

エルミタージュとは、「隠れ家」の意味があり、美術館は、歴代ツァーリの住まいであった「冬の宮殿」と4つの建物が廊下で結ばれて構成されている。世界3大美術館の1つで、エカテリーナU世のコレクションを中心に、ロマノフ王朝300年の珠玉のコレクションを所蔵する。量も内容も一流である。

館内はフラッシュ禁止でデジカメは使わず、建物の外側からだけ撮影することにする。帝政ロシア時代の財力をつぎ込み外観(屋根の上に176の彫像が立っている)、内装と装飾品も絢爛豪華で、入ってすぐの絢爛たる「大使の階段」では暫らく足が止まってしまった。ネヴァ川に沿い、薄緑色と白の装飾的なエルミタージュの建物は、対岸から見るその姿は、水の都に溶け込んでいるように思った。

絵画類は自分の目で見て記憶に残すことにする。

ツアー旅行の限られた時間内では、ヨーロッパ絵画(2、3階)を中心に見学・鑑賞する。

ツアーガイドによる説明見学の後、集合時間までに、もう一度見たい絵、見ておきたい絵を中心に手身近に見てまわる。足もとを見ると、寄木細工の床のモザイク柄が見事。

レオナルド・ダ・ヴィンチの2大傑作「ブノア(花をもつ)の聖母」と「リッタの聖母」は思いのほか小さいサイズだった。「ブノアの聖母」は、ダ・ヴィンチ26歳の作品、この年齢で後世に残る絵を描いているのだ!

レンブラントの「フローラに扮したサスキア」(新妻をモデルに描いた作品)と「ダナエ」、ラファエロの「聖家族」、マチスの「ダンス」など中心に、モネ、ルノアール、セザンヌ、ゴッホ、ドガなどの絵をを見る。

【ピョートル宮殿】

今日も又陽陰の女になれなかった。旅も4日目、選んで座るわけでもないのに、バスは日差しの強い陽の当たる側ばかり、ロシアに来て暑いおもいをするとは思ってもみなかった。広い大陸、出かけていく先の、日が当たる向きの見当がつかない。

ピョートル宮殿は、ピョートル大帝の夏の宮殿。サンクト・ぺテルブルグの西南にあり、車で1時間あまり。

エルミタージュ美術館北の船着場から、高速船で35分で行けることを帰ってから知った。ネヴァ川を見ながら行くこのコースは風情があったろうに、ツアーでは自分でルートを選べないから仕方なかったですね。めぐり運河を船で遊覧している観光客も見たが、ネヴァ川か、運河のどちらかの船にも乗ってみたかった。

宮殿はヴェルサイユ宮殿を模して造られ、「北のヴェルサイユ」ともいわれる。

宮殿前の公園、彫像と噴水が見事である。60余りの噴水が、一斉に天に向けて噴き上げると、ネプチューン、ヴィーナス、ジュピター等の彫像と一体となり、奥にフィンランド湾も見え、奥行きのある立体画を見ているようであった。噴水側から見る宮殿も綺麗だった。

宮殿内や庭に貴族姿の人が立っていたり、楽器を演奏したりしている。どうも観光客目当てに居るらしく、一緒に写真をとると有料(金額は聞かなかったが)のようだった。演奏している前に箱も置いてあった。

宮殿内にはダンスホール、玉座の間があり、中にエカテリーナU世の玉座、騎馬像の壁画(騎馬姿は珍しいらしい)、いろいろな調度品など展示されている。

ダンスホールでは、貴族達がウィンナー・ワルツを優雅に踊ったのだろうかと、よく映画で見るシーンを思い浮かべてみたりした。

珍しいところで貴族の便座があった。四角な腰掛椅子型で、金箔塗りの木彫(菩提樹)は豪華なものである。

【ホテル】

「ブリバルチースカヤ」。街の中心からちょっと離れた、ホテルのすぐ後ろは、バルト海に位置する所で、部屋の窓の左手からバルト海も見え、眺望も素晴らしい。朝食前に海辺まで散歩する。サンライズ前の空は、うっすらと赤味を帯び、暫らく眺めていると、段々と茜色に変わって、雲の切れ間から朝日が海面に射してきた。遮るものがないと、視界が広がり、引き込まれるように凝視していたい。もっと見ていたかったが、朝食、観光とあるので・・・。サンセットはしっかりと見る時間がなかったが、わずかに真っ赤な空から、真っ赤な夕陽が、バルト海へ沈む瞬間を見た。茜色、真っ赤というより、もっと燃えるような赤い夕陽に感じられた。北の海へ沈む夕陽は、言い尽くせないほど強い印象!! 

[モスクワ] (写真3)(9/10〜9/11)

今回の旅の楽しみの1つに、コンパートメント寝台列車に乗れることがはいっている。

そのコンパートメント寝台列車で、サンクト・ペテルブルグからモスクワへは、7時間の旅。4人用の部屋を2人で使用。室内は、シーツと毛布カバーもセットされており、こざっぱりとした感じ。ベッドの長さと幅は、やや小さめで、大柄なロシア人にはサイズが小さいのでは? 上段のベッドを畳んで下段に寝たので頭が痞えることもなく、内から施錠も出来、列車の振動も気にならずに眠れた。若い頃、寝台列車で上京したことを想い出したり、夜間で外の景色は見えずちょっと残念!

モスクワ駅に朝7時前に着き、ホテルで朝食を済ませる。なんとホテルのすぐ前にクレムリン、赤の広場が見える。赤の広場とモスクワ川に面し、ほぼ四角形の建物で、6000人の客を収容できるヨーロッパで一番大きいホテル。入り口は4箇所もあり、ホテル名も、国名と同じで、ズバリ「ロシア」。

朝食後、4台のバスは時間差で観光へでかける。バスに乗ろうとしたら、こんな時間、路上に花嫁さんが・・・。

私達のバスは先ずみやげ物店へ。モスクワではお目当てのキャビアとウオッカを買った。キャビアは量の持ち出し制限があって1人250gまでとなっており、現地でも高価なもので、50g入り瓶詰めを8個(2人分で)にした。ワシリー聖堂が観光できる時間になって、ホテルの方向へ向かう。

モスクワの街に入って先ず目についたことは、車が多いことだ。朝夕のラッシュ時はひどく、運転も乱暴で、平気で無理な車線変更するし、旅行中に、車上から交通事故を2回も見た。

ホテル前の近場にクレムリン、赤の広場、聖ワシリー聖堂と、まとまって在った。

【聖ワシリー聖堂】

鮮やかな色彩の「葱坊主型のドーム」は、聖霊を表す火炎の形といわれる。9本のドームの高さも配置もばらばらで、そのアンバランスが面白い。現在は博物館で、内部は修復中のところもあり、外観の美しさには圧倒される。[雷帝]とも呼ばれるイヴァン4世は、これほど美しい聖堂を2度と造れないように、建築家の目を潰してしまったという。

【赤の広場】

ソ連時代にテレビでよく映し出された「赤の広場」はどんな所だろう?と興味があった。

映像で見ている時、赤い色のイメージがあったが、赤いのはクレムリンの城壁の色であった。もともとは商人が集まり、商業活動をしていた交易のための広場で、「赤の広場」はロシア語でクラースナヤ・プローシャ、「美しい広場」という意味だそうだ。広場は思っていたよりは狭く感じた。

「赤い広場」前にある、かっての国営デパート、モスクワ最大の百貨店「グム百貨店」をちょっと覗いてみた。個別の店が軒を並べて、アーケード街の感じ。ヨーロッパブランドも多く、外資系ショップが多数進出しているという。地元の人は、ここではあまり買い物しないらしい。

【クレムリン】

ロシア語で「城塞」の意味だが、モスクワのクレムリンは、長い歴史の中で徐々に拡大し、皇帝ツァリーの居城として繁栄してきた。周囲をぐるりと城壁が囲んでいる。赤い城壁は変形五角形、大まかにいって三角形。6つの入り口塔がある。

ボロヴィツカヤ塔・・・観光客出入り口。バスカヤ塔・・・公用出入り口。

観光客用出入り口のボロヴィツカヤ塔からクレムリンへ。クレムリン内で、建物の中に入って見学した所は武器庫だけ。

【武器庫】

ロシアの工芸美術品、王冠・王忽類、外国からの贈り物など膨大な宝物類が収蔵されていた。皇帝の王冠、エカテリーナ2世のきらびやかな服(結婚式、戴冠式時に着用した)聖書のカバー、金銀細工の食器など、宝石を散りばめたものばかりで、ため息の出るようなものばかり。はじめは、珍しく、食い入るようにして見ていたが、あまりに豪華で、その量の多さにちょっと飽きて、2時間ぶっ通しの見学には疲れ気味。

クレムリン内には他に

【ロシア連邦大統領府】

大統領がいるときは、大統領旗が掲げられている。この日は揚がっていたので、プーチン大統領は居ると1人で合点。

【サボールナヤ広場】

クレムリン内で一番広い広場で、帝政時代公式行事が催された。

この広場の中にウスペンスキー聖堂(かってロシア帝国の国教大聖堂、扉の上はイコンのフレスコ画が飾られている)イワン大帝の鐘楼などがあり、広場からガイドの説明を聞きながら外観を見学。

ロシアの旅最後の夜は、サーカス鑑賞。

クレムリンを出て1時間ほどで行ける予定が、車の渋滞に巻き込まれ、2時間近く要してしまった。乱暴な運転のドライバーが多く、交通規則があるのだろうか?と思うような運転にはびっくり仰天。モスクワは白タクが多いとガイドが言っていたが、その影響もあるのだろうか。バスのドライバーさんは安全運転でした。途中2回も交通事故を目撃したりして、やっとの思いで着いた時は、サーカスは既に始まっていた。

ボリショイサーカスなどをイメージしていて、室内のショーかと思っていたら、公園(ゴーリキ公園?)のテント小屋でのサーカスだった。プールを使った水中ショー、マジック、空中ブランコなどを観る。水中ショーは、珍しくシンクロナイズを見ているようで、空中ブランコはダイナミックな演技が続いた。夕食も摂っておらず、結局1時間足らずで出ることに。遅い夕食を済ませてホテルへ戻った時は11時前、思わずふっ〜とため息。この日は武器庫見学、車の渋滞で、好奇心が強い方の私もいささか疲れました。明日は帰国するので、夜は荷物の整理もしなければならず、手順を考えながら動く。

[モスクワから帰途へ](9/11〜9/12)

モスクワでの最後の朝食を、クレムリンの見えるテーブルに座って摂る。

トランクを出して、夕方の帰国便までの残された時間で、郊外観光へ。ホテル前のクレムリンを背にして、高台にあるエリート校・モスクワ大学方向へ向かうが、街路樹は菩提樹が多い。シベリア地方は白樺、赤松、落葉松が多かったが、西に進むに連れ段々と菩提樹が多くなってきた。菩提樹は「エカテリーナ宮殿」の内装の木彫に多く使われていたことを思い起こす。価格は、白樺→菩提樹→樫の順に高くなるという。白いモスクワ大学は(21学部・学生4万人で5年制、医学部6年)、小高い所にあり市街地からも目に付きやすい。ロシアの教育制度は小中高3・6・2制。

大学前道路のミニ展望台の所からモスクワの市街地が一望できた。

バスの集合時間に夫の姿が見えない。「ライカ」のカメラを持ってバスへ戻ってきた。展望台近くに露店が並びアンティークらしい品もあったが、そこで2万円の言い値を、1万円で買ってきたという。カメラや骨董に趣味があるわけでなし、昔から「ライカ」は憧れのカメラだったというだけのことで、“ケースの片方のベルトが取れており、これが本物らしいではないかと?”独りがってな言い分。バスの中にカメラに詳しい人がいて見て貰うと、どうやら本物らしい、撮影でき、本物なら50万円すると(バスの中に、一瞬どよめきのようなものが・・・)、でも海外で買ったものは価値がないと。ぬか喜びしたり、ちょっぴりがっかりしたり、私は“夢を1万円で買ったと思えば、ロシア旅行の良い思い出になるわよ”と。夫も“そうだな!”と、この歳で気分は少年、自己満足できれば結構なことである。

【コローメンスコエ】

市の南東、モスクワ川沿いの皇帝の保養地だった所で、古いヴォズネセニエ聖堂(上がロッケットの形をした多角形で、石造り)があり、今は自然保護公園。多くの観光客、地元の人たちも来る。この日は天気もよく、先生に引率された幼稚園・小学生らしい子供達が、広い公園を走り回ったり、老夫婦の散歩姿が見られた。

車窓からコンテナ市場(コンテナを店として利用し、日用雑貨、野菜果物など売っている)

が見えたが、そこで、近所に住んでいるらしい、普段着姿の人たちが買いものをしている。冬瓜の形に似た細長い西瓜が、整って括られ並べてある。車窓から、西瓜の路上売りを何度も見かけたが、どんな味か一度試食してみたかった。

モスクワ川沿いの昼食のレストランへ。

船を改装して設えた、モスクワ川の水上にある、水辺の趣きのあるレストラン。「ビーフストロガノフ」とバターライスが出たが、日本で食べる味と変わりなく美味しかった。主菜には、ほぼご飯が付いていたが、固い時もあり、冷凍ご飯の解凍時間不足のような口当たりの時もあった。

【ショッピング&お土産】

旅の楽しみの1つにショッピングがある。旅行では、移動してまわるので、値定め出来ないまま買ってしまい、“しまった”と思うこともあるけれど、安かろうと、高かろうと、旅の思い出と割り切ることにしている。買えずに残念!より、買ってよかった!と気楽に楽しんでいる私です。

旅行に出る前、琥珀のアクセサリーとキャビアが買えればよいと思っていた。

★琥珀・・・琥珀の色はコニャック色を思い描いていたが、この他に緑がかった色(値段は高目)、乳白色(古い琥珀)、黄色などありロシアに来て初めて知った。

★マトリョーシカ・・・人形を開けると、一回り小さな人形が、次々と出てくる、入れ子人形。

顔の表情、色、柄さまざまで、大きな人形から小さな人形が出てくることから、出産祝いにも使われるという。歴代大統領・似顔絵のマトリョーシカもあった。

マトリョーシカは、ロシアの至るところで売られていたが、確認できた最高の数は帰路のウラジオスットク空港で見た30個。最後の人形は1cmぐらいの大きさになっていた。

★お土産として買ったものは

キャビア、ウオッカ、琥珀のアクセサリー類、マトリョーシカ、フロマ塗り(木の塗り物)のスプーン、白樺細工、チョコレート、エカテリーナ宮殿とエルミタージュ美術館の2004年カレンダー、絵葉書。

絵葉書といえば、海外旅行に出た時、着いたその日の夜に、土地の絵葉書に第一印象と無事着いたことを書いて子供達と自宅へ送っている。今回は、とうとう書くこと出来ずじまい。

空港へ行く途中に、車窓からノヴォデヴィッチ修道院(ゴーゴリ、チェーホフ、フルシチョフ、シャリアピン(天才シンガー)など有名人の墓がある)を見る。今は女子修道院。

添乗員から「九州に台風が接近して鹿児島には影響ないらしいこと、阪神の優勝は未だ」との情報あり。旅行前の鹿児島の天気予報では1週間晴天とあり、庭いじりの好きな夫は留守中の庭木・花の心配をしていたが、ほっとした様子。

国内線最後のシェレメチェヴォ空港(モスクワ)へ到着。

シェレメチェヴォ空港17:00発→ アバガン経由(給油)→ウラジオストックへ。

気流の影響で、1時間早くウラジオストック空港着。

いよいよ日本への帰国。

すんなりとはいかず、出国手続きに手間取り、全員(130人)済むまで2時間以上要す。税関職員の鈍い仕事にはちょっとうんざり。中国でも同様の経験あり。

9月12日(金) ウラジオストック航空(臨時便)・ウラジオストック空港発13:30

                             関西空港着13:20(日本時間)

日本の税関では客に“急いでください”、お国柄の違いか、日本人がせっかちなのか?

台風は九州西海岸を通過したようで長崎行きは欠航、鹿児島便は定刻運航。

「7泊8日・ロシアの旅」の全行程を予定通り済ませて、8時過ぎに無事帰宅。夕食は出前のお寿司で、久しぶりの日本食と緑茶でほっとして落ち着く。 “お疲れ様でした。”

[旅行で感じたこと、“あれ”,“これ”]

[治安について]

特に、治安が悪いという印象はなかった。ツアー旅行で、ホテルの近場を歩くぐらいで、殆ど自由行動をしなかったこと(時間もなかった)もあるが。ツアー一行何事もなかった。

[ロシア語について]

何1つ予習することなく行ったので当然だが、スペルも発音も難しい。つい英字を見るような感覚で表の看板を見ていると、漢字のような「中」や「3」(数字ではなく文字)があったり、何と読むのか見当もつかない。旅行中、唯1つ覚えて出た言葉は、スパスィーバ(ありがとう)。行く先の簡単な言葉を覚えて,短い会話でもできれば、旅はもっと面白く、楽しいものになると思った。

現地ガイドは日本語が上手で、よく勉強していると感心する。サンクト・ペテルブルグで、此処に、地震が無いの説明で“日本ではよく地震、雷、火事、親父と言いますが・・・”の諺までさっと出てきたのには驚いた。

[時差について]

今回の旅行は、イルクーツクからロシア入りし、一気にモスクワ、サンクト・ペテルブルグへの飛行ではなかったので、楽であった。帰りはモスクワからアバガン経由(給油)ウラジオストックと、4〜5時間乗ったら降りることを2回してからの帰国で、帰ってからも時差ぼけは感じなかった。

[食事について]

ツアー旅行で、食事は全部ついていたので無理だったのだが、

食いしん坊、料理に関心のある私は、「これがロシア料理!」という特徴のある料理に1度でもお目にかかりたかったですね。又の機会があったら、自分で選んで食事をしてみたいものです。

[有料について]

有名な宮殿、美術館,教会内の写真撮影は、有料で、料金はどこも50ルーブル(200円)ぐらい。ビデオを撮っている人もいた。トイレが有料(10ルーブル・40円)の所もあったが、エカテリーナ宮殿、サンクト・ペテルブルグ空港など一部。写真撮影は、有料でも、自由に撮影できることは有り難かった。

[ツアー参加者について]

このツアーへの参加者は、中年夫婦組みが多かったが、私達のバスの中にはユニークな人がいた。85歳の男性で、家族同行ではない。

75歳以上になると、ツアー旅行に参加するには健康診断書が必要だそうで、私も初めて知る。旅行会社から誰かと組んで欲しいといわれ、85歳と79歳(男性)の組み合わせになり、2人は知り合いでもなく、この旅行のために同室を希望したという。

陰の声<夫には出来ないな、多分?> その協調性にも驚くが、行動力も、カメラを抱えて人に遅れをとることなく元気!元気!この男性は海外旅行歴50年、南極と北極以外は殆ど行っているといい、奢ったところもなく、飄飄とした感じ。前向きに生きている年長者から元気をもらった。おばあちゃん(モダンで物識り)、娘、孫三世代での参加者もあった。

食事の時、毎回違った顔ぶれでテーブルに着くと、いろいろな人から、いろいろな話を聞くことも出来、まさに、“旅は道連れ、世は情け”で楽しい。

[おわりに]

ロシアは、社会主義体制のソ連時代が長く続いたけれど、貴族社会の遺産がしっかりと残されて、継続維持されていることに、驚きと安堵の入り混じった感想をもった。宮殿・美術館・聖堂など見て周り、改めて広大な国ロシアの威力・底力を感じる。又、床は寄木細工など木材が多く、見た目も温かく、脚にも優しかった。

サンクト・ぺテルブルグでは中心部に19世紀のバロック様式の建物が残っており、ヨーロッパの薫りのする、運河の多い街並みは旅情を掻きたてられるものがある。今は自由経済体制に変わって、未だその途上にあるのだと思う。お手洗い事情など、現在の私達の物指しで量って判断することはできない。数年もしたら、もっと大きく変わっていることだろう。

  •   閉ざされた社会主義のソ連時代なら、市民が行くことなど考えられなかったロシア!

  •   知らないことが多かったロシア!

  •   機会があれば、もう一度行って、街をゆっくりと歩いてみたいサンクト・ペテルブルグ!

わずか1週間のツアー旅行では、観光地などの表面的なところしか見ることが出来ず、仕方のないことだが、時間が許せば、街中を歩いて市民の日常生活も見てみたかった。広大な国ロシア、一部分とはいえ、自分の目と耳と脚で知る機会があって、私にとっては、今まで知らなかったことの発見と、実りある7泊8日のロシア旅行でした。

2003.9.28.

                                                                                      
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