(2004/7/11〜7/18)

山中温泉 (2004/12/10〜12) 

                     旅紀行へ                                                



南に住んでいると北国には知らないことがありそうでワクワクして期待感が膨らんでくる。
金沢のイメージは冬の雪吊りの風景であり、北国にはやはり雪景色が似合っている。夏模様は浮かばない。

金沢へ行ったことのない私と次女の二人、彼女の夏休みに合わせて、金沢・能登めぐりを思い立ち、
飛行機のチケットと宿だけを予約して旅立つことになった。金沢4泊、輪島1泊、和倉1泊の旅である。

 暑さは苦手であるが、“行けるチャンスがある時が良い時”と思い東京で暮らす彼女と羽田で落ち合って
小松空港へ向かった。
1週間の日程が取れたので現地に着いたら電車とバスを駆使してゆっくりと気ままに歩く旅をすることにした。

予定通りに金沢に着いたが、実は私の“どじ”で出端からハプニングがあった。
鹿児島発便を失念したのです。(詳しくは
diaryコーナー「我ながら」



T.城下町「金沢」

旅をするときは行く先の天気が気に係る。予報ではこの週は20〜30%の雨とあり宜しくない。2時過ぎに羽田を発ち3時30分に小松空港に着いた。小松に降り立ってみると曇り空である。

小松空港からJR金沢駅までリムジンバスでおよそ40分要した。日本海沿いに北上するルートで、車窓から見る沿道には松と大振りの合歓の木が切れ間なく続き、広がり、淡い薄紅色が優しく美しく映る。

勝手に「合歓の木ロード」と名づけた。

ホテルは金沢駅近くの日航ホテル、市内で一番高い建物で遠くからも方角の目印になる。チェックインして駅の百番街のレストランへ出かけた。金沢百番街はJR金沢駅構内にあり、名産・銘菓・工芸品などのみやげ物店と食事処など140店舗がズラリと並ぶ専門店街。加賀料理店に入り「加賀料理」を注文した。お目当ての冶部煮もあった。味噌仕立てでとろみがありスープもたっぷり張られていた。

夫に無事ついた事を電話する。鹿児島は梅雨明けしたという。帰ったら今度は梅の土用干しが待っている。激戦の知事選(期日前投票済み)の結果も気になる。9時過ぎにTVのデロップで当確が出た。明日のスケジュールを話し合い確認して休んだ。

余裕のあるスケジュールだったので4日間にわたって金沢市内をこまめに見て回った

雅な文化と城下町の風情が残る金沢。300年にわたって栄華を誇った「加賀百万石」の文化は今も町並みや伝統工芸品(九谷焼、加賀友禅、加賀蒔絵、象嵌、水引)、和菓子など、そこかしこに文化の香りが息づいている。

滞在中に彫金(加賀象嵌)作家・金沢美術工芸大教授「中川衛」氏が人間国宝に認定されたと地元紙が大きく報じている。57歳の若さである。伝統工芸を育む土壌があるのだろう。

この400年の間、戦争・大きな災害がないという。第2次世界大戦では京都とともに戦禍を逃れた。現在、金沢市の人口は45万6千人で全国で31位。

至る所に板壁の家並みが残っており、しっとりと落ち着きのある町の印象だが、道幅は狭く小筋が多い。

金沢市内の交通はJR金沢駅を起点として、観光バス、周遊バス、路線バスが走っている。

バスターミナルには行き先の主な停留所も表示され分かりやすく観光客も利用しやすい。バスの利便性がよく金沢市内では一度もタクシーに乗らずにすんだ。

現在ガラス張りの駅ビル建設中でターミナルへは迂回しなければならずちょっと遠回りの感がしたが。これも直に解消されるだろう。金沢市内の見所は金沢駅の東側、浅野川と犀川に挟まれた周辺から兼六園の辺りに集中しており徒歩とバスで散策できる。

【城下まち金沢周遊バス】


金沢周遊バス(秋声)とフラットバス

「城下まち金沢周遊」号は、金沢駅から出ており、兼六園、ひがし茶屋街、武家屋敷など金沢の名所や見所を周る便利な循環バス。一週約40分で一方通行。金沢の三文豪(泉鏡花・徳田秋声・室生犀星)の名を冠す「鏡花」「秋声」「犀星」のボンネットバスで15分間隔に走っている。ドライバーは女性でやわらかい口調で最寄りの観光名所の停留所を知らせてくれる。古い町並みを見ながら、川のせせらぎや風を感じながら、レトロ気分に浸りながら目的地で下車する。1乗車200円。1日フリー乗車券は500円。この周遊バスをよく利用した。乗るたびにどの作家かと確認したが「鏡花」には乗り損なった。



@兼六園

兼六園、成巽(せいそんかく)、天徳院見学は定期観光バスを利用した。説明があること広い所を効率よく回れると思ったからである。

兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本3名園の一つである。

加賀藩主の庭園として知られ古都金沢の象徴的存在でもある。中国の名園の条件といわれる「宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望」の六勝を兼ね備えていることから兼六園と名づけられた。広大な土地に、池、築山、御亭を配置した、廻遊式の庭園である。四季折々の表情を(春の桜や梅、夏のカキツバタやツツジ、秋の紅葉、冬の雪吊り)見せるとあるが、7月のこの時期どれもなく園内は松の緑一色であった。松にはさまざまないわれを持つ松が点在している。「夫婦松」は雄松(クロマツ)と雌松(アカマツ)の幹が寄せ接ぎされていて、その姿が夫婦のようだと名づけられた。残念ながら平成15年にクロマツは枯死している。未亡人松? 女性の生命力のほうが強靭? humuhumuと妙な納得をしたり・・・。

見どころの、徽軫(ことじ)灯篭、雁行(亀甲)橋、霞が池(園内最大の池)を見ながら園内をほぼ一周した。

徽軫(ことじ)灯篭――2本足の灯篭で、足の形が琴柱に似ているところからこの名がついた。カメラを抱えた観光客が群れている。兼六園のシンボルでもある。

雁行(亀甲)――亀甲型の赤戸室石11枚が連なって造られた小さな橋。雁が列をなして飛んでいる姿に似ている。雁行橋眺望台からは金沢市街地が一望できた。

広大な園で、この時期は花の色がなく、暑いこともあり、庭園美を楽しむ雰囲気にはなれなかった。ベストシーズンではなかったように感じる。内心では雪吊りした雪景色の兼六園にあこがれていたのでちょっと残念。

A成巽(せいそん)

13代藩主前田斎泰によって母眞龍院の隠居所として建てられた。

金沢城より東南、巽の方位に在るとして成巽(せいそん)閣と名づけられた。

2階建ての建造物で、1階は書院造り、2階は数奇屋風書院造りとひとつの建物に取り入れた珍しい建築で、国の重要文化財。贅を尽くした造りである。極色彩、花鳥透彫の欄間やギヤマンをはめ込んだ雪見障子など意匠を凝らしてある。障子の腰板の絵に驚いた。寝室の亀の間は障子の腰板に亀の絵が描かれている。亀の間、次の間へと腰板に描かれている亀の数が増えていく。各障子それぞれ亀の数が違っている。装飾と機能を兼ねており、亀の数により障子の位置が特定できるように工夫されているのである。蝶の間、つくしの間、貝の間も同様であった。縁側の縁板は鶯張りになっている。警備と装飾の意味を持つという。

B天徳院   (説明パンフレットより)

曹洞宗の寺院で3代藩主利常の正室珠姫の菩提寺。珠姫の法号を取って天徳院と名づけられた。

珠姫は徳川二代将軍秀忠の次女で母はお江、織田と徳川の血を引く。

前田が徳川を討つという噂が流れたとき、はむかう計画のないことを、その証として芳春院(おまつ)を人質として江戸に送り、かわりに珠姫を利常の嫁として受ける約束をした。

珠姫3歳のとき加賀へ輿入れして14歳で結婚、3男5女に恵まれた。夫婦仲もよく年常公の妻として、二代将軍秀忠公の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くした。

夏姫(5女)出産後24歳の若さで亡くなった。加賀百万石の危機を救いその繁栄に尽くした、良妻賢母、日本女性の鑑として、いまも金沢市民に敬愛され親しまれているという。

珠姫お手作りの紙雛人形も展示されている。雛人形の古形といわれる立ち雛で徳川家の葵の紋様,前田家の梅の紋様が入っている。見入っていると、どんな想いで織られたのだろう、金箔も薄れ、切なくなってくる。

本堂の一角では、珠姫の生涯を描いたからくり人形「珠姫・天徳院物語」が1日4回上演されている。2時からの部を観た。



C長町武家屋敷跡

長町の武家屋敷跡
この通りは、よく映画やテレビ撮影されるという。
大野庄用水

藩政時代は藩主の荷物を運んだ。
いまも潅がい用に使われている。

観光ボランティアガイド「まいどさん」にガイドを依頼した。

藩政時代に中級武士の屋敷が立ち並んでいた地区。近くを満々と水を貯え流れのついた大野庄用水が流れている。犀川の水をひいたもので、かつては藩主の荷を運んだり、防火や水利用に使われた水路で、いまも潅がい用に使われているという。その東側の小路に踏み入ると江戸時代に逆戻りしたような武家屋敷跡がある。

武家屋敷としての景観は土塀のみが残っており、家がそっくりそのまま残っているわけではない。保存維持が大変のようだ。市の補助もあるという。冬場は雪で土塀の崩落を防ぐために(こも)掛ける。両側に土塀が連なる細い道は迷路のように曲がりくねっており、敵が攻めてきたときに一気に攻め込まれないように備えている。

ア.高田家跡(旧加賀藩士)

大野庄用水の水を取り入れ江戸時代の池の周囲を巡りながら鑑賞する池泉回遊式庭園となっている。仲間(ちゅうげん)部屋に興味を惹かれた。来客を確認する小窓と出入り口があるだけで、室内は何一つ調度品はない。

仲間ちゅうげん)当主から食べ物・衣類をもらい手当てはなかった。来客のチップは自分のものになった。独身者が多かったらしい。

イ.足軽資料館

高西家、清水家2軒の足軽屋敷を移築し内部公開している。

足軽は身分の低い歩兵のことだが、加賀藩の足軽は、庭付きの一戸建てに住んでいる。

当時の足軽の仕事や日常生活、世襲など文献資料を公開している。

家は思いのほか広くて間取りもよい。床の間付き接客間もあり、寝所に長持ちなどが置かれているが収納場所として屋根裏を利用している。台所もある。便所も屋内にある。石屋根(板屋根に石が乗せてある)になっている。家臣を大事にしている顕われだろうか。

ガイドさんと別れて戻り道、麩の専門店が目にとまり中に入ってみる。一休みして麩まんじゅうを食べる。店頭にいろいろな麩製品が並んでいる。生麩製品の数々をこんなに見たことはなかった。食べてみたい生麩製品を宅急便送りとした。

ウ.野村家

ホテルからも近いところで歩いて出かけた。

加賀藩直臣、野村家の屋敷跡。武家制度の解体で窮乏のため土地は分割されていった。門、土塀、曲水庭園の一部は残っており、現在の建物は北前舟で財をなした豪商久保彦兵衛宅を移築したもの。

玄関に入ると能の謡いが聞こえてくる。(テープだが)ここ金沢は「加賀宝生流」の盛んなところである。「加賀宝生流」という別派ではない。前田藩の手厚い庇護で東京についで活発であることから、俗称で呼ばれている。また金沢では「空から謡が降る降る」といわれる。誰もが謡をたしなみ、植木職人が木に登りながら謡いを口ずさんでいるさまを道行く人に上から降るように聞こえたことに因んでいる。風雅な精神が日常生活の中に根付いている顕れだろう。県立能楽堂もある。

外様大名であった加賀前田藩は、徳川幕府の監視の中で、文化的伝統藩を守って城下町を繁栄させ所領を拡大した。

内部の総檜の格天井、ギヤマン入りの障子戸、狩野派の襖絵などは見事である。

離れにお茶室があった。茶室から曲水・落水の庭園を眺めながら抹茶をいただいた。

静寂の中を風が流れ、無心になれる空間である。

「金沢市老舗記念館」は藩政時代薬種商だった建物で2Fは伝統町民文化の展示施設施設になっている。

花嫁の暖簾、結納の加賀水引など金沢の「婚礼模様」の数々。
工芸菓子

すべて砂糖だけで作られている。
まるで生花のように見えた。
加賀花手毬

色とりどりの糸で、色の美しさにおもわず“綺麗!”
豪華で精巧なつくりである。



D茶屋街  

金沢には3カ所(ひがし、にし、主計町(かずえまち))茶屋街がある。文政年間(1818〜30年)に加賀藩によってつくられ、金沢の社交の場としての役割を担った。

周遊バスと徒歩で3カ所とも訪ねた。

ひがし茶屋街 西茶屋街
お茶屋の室内と調度品
台所と石室(食糧品の貯蔵所)も残っている。

  ア.ひがし茶屋街

浅野川の東にあり、かつての東の郭。郭といっても、伝統と格式を誇り、文人や裕福な商人たちの社交場でひがしが一番格式が高い。芸妓たちは琴や謡曲、茶の湯など京都の祇園に並ぶ洗練された芸を身に付けていた。石畳のとおりの両側に細かい虫籠(きむすこ)格子のはまった家々が軒を連ね、情緒たっぷりで多くの観光客が行き交っている。今も営業している料亭があり夕方になると三味線や太鼓長唄が静かに流れてくるという。「懐華楼」「志摩」は2001年国の重要伝統的建物群保存地区に指定され見学できる(どちらも有料)。

この2カ所を見学した。内部は朱塗りの階段、漆使いの調度品、弁柄色の壁、和歌が書かれた短冊模様の襖、七宝焼きの襖の取っ手、縁の手すりには透かし模様が施され、随所に趣向を凝らした細工が見られる。茶室、お琴、太鼓に鼓、加賀友禅模様の暖簾などを見ると芸の場であった昔日を髣髴とさせる。どこからともなくお囃子や三味線の音が聞こえてくるようである。かつては宴に包まれ賑わったのだろう、女性の人生模様が繰り広げられたであろうこの空間。一角に立ち彼女たちのことに想い馳せると今の静寂が時間を静止する。囲炉裏、石室、台所など江戸時代そのままに残っている。

他の店は表は格子戸の町並として統一感は保たれているが、中に入ると箔使いや友禅染小物の土産物を商ったり、ギャラリーなどになっている。

浅野川大橋袂の小間物屋に入ってみた。通りから銘仙生地に見える和服が目に留まったが間違いなかった。リフォームして突い丈にしてある。手で生地の感触を確かめてみる。懐かしい手触りである。私の世代までは銘仙の着物を着ている。伊勢崎、桐生、秩父などが有名な銘仙の産地であった。今ではほとんど見ることのない紬地である。竹細工のこおろぎが目にとまり、娘がお父さんのお土産にと2匹求めた。精巧にできている。

イ.主計町(かずえまち)茶屋街

浅野川河畔の花街で一番小さい茶屋街。川沿いに歩いた。表は格子戸だが今は住まいになっているところが多いようだ。泉鏡花が幼少時過ごした地域でもあり、この界隈は彼の作品にも書かれているという。近くに滝の白糸像があった。私も娘も鏡花の作品は読んでいない。新派の当り狂言となった「滝の白糸」のあらすじを思いつく程度である。本来の作品名は「義血侠血」である。何か1篇でも読んでいたら関心度も違ったかもしれない。生誕地を訪れたことを機会に彼の作品を読んでみよう。

この浅野川で友禅流しが行われるという。水かさは少ないが川底も見える清流で浅瀬には鷺がのんびりと羽を広げながら停まっている。中の橋(木製の橋)の欄干にもたれて暫し足を止めた。川面を渡る心地よい風が肌を包み川遊びしている子供に見惚れていた。ゆっくりと時間が流れ、時代を逆上りしたような情緒あるエリアである。

ウ.にし茶屋街

犀川大橋を渡って直ぐのところにある。2日目の宿から近く歩いて出かけた。

ひがしと同じく1820年に誕生した。今はほとんど料亭になっている。甘納豆屋がありのぞいてみた。ひよこまめ、とらまめで作られたものが珍しい。

その向かいの「金沢西茶屋資料館」へ入った。ここは西の郭で育った異才の作家・島田清次郎の関係資料の展示とお茶屋の内部が再現されている。島田清次郎については人物・作品ともに知らない。ドストエフスキーに傾倒し文学を志す。大正期に20歳で発表した小説「地上」は当時50万部のベストセラーとなり一躍ベストセラー作家となった。その当時としては驚異的な数字だったらしい。その後女性スキャンダルをおこし文壇を去り、奇行、精神病で31歳の若さで没した悲劇の作家という。彼の生涯のパネルや展示品をゆっくり観覧した。同県の杉森久英が彼の直木賞受賞作品(S37)・「天才と奇人の間」で島田清次郎の生涯を綴っているという。太く短く生きた島田清次郎の人物と作品には惹かれるものがある。気に懸かる。

窓口にはボランティアガイドの「まいどさん」がいて入場無料。



E加賀料理&近江市場

金沢市民の台所をまかなう食材を売っている。新鮮で種類品数が多い。
加賀野菜は珍しい。初めて聞く金時草、太きうり。鹿児島産の里芋も並んでいた。
  加賀野菜
赤西貝
七尾湾のごく一部でしか獲れないらしい。
昭和天皇にお出しして有名になったという。
この赤い色は生の色である。
赤西貝のにぎり
数少ない赤西貝を食べられるお寿司屋に行き合わせた。
「治部煮」
麩の専門店茶寮(さりょう)不室屋(ふむろや)で。

「加賀料理」と聞くと言葉から来るイメージは「加賀百万石の豪華な料理」「高級料亭の料理」

の感じがする。加賀料理のメニューにある「治部煮」や「かぶらずし」などは、もともとは庶民的な郷土料理だという。

金沢へ旅することが決まった時、まず頭に浮かんだ食べ物は「治部煮」「生麩」である。

治部煮は武士の野営食から生まれたとも、じぶじぶ煮るところから名づけられたともいわれる。

とりわけ気を惹かれる金沢の郷土料理・治部煮は滞在中に4回食べたが、それぞれ味が異なり、中の具にも違いがあった。中の具は鴨肉or鶏肉、すだれ麩、生麩、たけのこ、里芋など、味付けは醤油or味噌でわさび添え。薄味でスープにはとろみがついている。

「すだれ麩」は見るも食べるも初めてであった。治部煮には必ず入っていた。薄い形状の麩で表面に型押ししたような細かい穴がある。味を浸み込みやすくするためだと思う。

加賀料理「大名茶家」と麩専門店「茶寮不室屋(さりょうふむろや)」でいただいた治部煮は、見た目もきれい(盛りつけ)、味良しで、これぞ治部煮と印象づけられる一品でした。

かぶらずしは、暑いこの時期は作られず、見ること・食べることもできずに残念でした。

「近江市場」は金沢市民の台所をまかなう食材を売っているところである。

昼食を市場内の食堂で摂ろうと思って昼過ぎに出かけた。

アーケードの下に狭い通路が迷路のように走り、約200店舗がひしめき、人波でごった返している。

ズワイガニ(今の時期は北海道産、越前ガニは11月ごろから)甘えび、岩牡蠣、白貝、はちめ(めばる)の魚介類、干物、岩のりなどの海産物、加賀野菜、果物などが所狭しと並んでいる。値段も安い。「いらっしゃい!いらっしゃい!」威勢のいい呼び込みの声がして活気がある。普段近くにこのような市場があれば飛びつきたくなるような品揃えである。

「加賀野菜」?初めて聞く。加賀地方で産する野菜の総称というが、なかでも金時草、太きうりは珍しい。

金時(きんじそう)――表・緑、裏・赤紫色した葉野菜。茹でるとぬめりがあり、お浸し、酢の物で。

太きうり――直径5〜6センチで、縦に一筋の白い線が数本入っている。酢の物で。

娘は加賀野菜に興味を示し、買いたいようなそぶりで写真におさめていた。

加賀料理店「大名茶家」で夕食をとった時、運よく金時草のお浸し、太きうりの酢の物が出てきて味覚で確かめることが出来た。食事時、珍しい料理や食材がでてくると“お母さんデジカメ、デジカメ”と急かされ、・・・“あっ、しまった!”油断して先に箸をつけてしまったり、うっかりしたり。好奇心より食い気のほうが先になったりしました。

結局昼食は、近江町で働く人もよく通うという近江町食堂にした。三宝盛(うに、かに、まぐろ)という海鮮丼を注文した。なんとマグロの上に金粉が乗っている。三種の海の幸がこぼれるように盛られ、新鮮で頬っぺたが落っこちそうに美味しかった。貝汁の味噌も米味噌で風味に違いがある。九州は麦味噌の多いところである。味噌汁の味噌味が変わると日常を離れ旅していることを実感するときである。お茶も同様である。緑茶を飲みなれているのでほうじ茶が出てくると北へきたことが分かる。金沢はほうじ茶でも特に「加賀棒茶」と呼ばれており、まろやかな味がする。

お土産

金沢は和菓子がおいしい所として有名で、眺めて回るだけでも楽しい。

金箔も全国の90%を産する。

和三盆を使った上品な甘さの和菓子、金箔入りの和菓子、あめ。金箔入りのあぶらとり紙などおくゆかしさを感じさせるようなものが多い。

いしる――魚醤。能登では古くから伝わる調味料で醤油と同様日常使っている。「魚(さばいわし)いしる」「イかいしる」が売られていた。ヴェトナムの「ニョクマム」、タイの「ナムプラー」も同類。


U.漆器(輪島塗)と朝市で有名な輪 島

旅も4日目、輪島へ向かった。

午後便の定期観光バスを利用して、途中を観光しながら夕方輪島へ着いた。

金沢から日本海沿いの海岸線を走るルートである。沿線には千里(ちりはま)なぎさドライブウエイ、巌門(がんもん)、能登金剛(のとこんごう)など日本海の海岸美が続く。

千里浜なぎさドライブウエイ

日本海の海岸線8キロ、波打ち際を走るドライブウエイ。
視界も全開、海風をきって爽快。
巌門

怒涛が逆巻くように巌門の周りに打ち寄せ、
荒々しい能登の日本海。
機具岩(はたごいわ)

別名「能登二見岩」とも呼ばれる。

@千里浜なぎさドライブウエイ――粒子の細かい砂が海水を含んで大型バスが走れるほど固くなる。海岸線8kmにわたって波打ち際の景色を楽しみながらのドライブコースになっている。夏は遠浅の海水浴場として賑わうという。ちょっと波があったが泳いでいる人がいた。天候が悪いと通れない。この日は晴れでいたが、こんなに波打ち際近くを走るバスに驚き、夏来てよかったと思った。次々と白い浪が打ち寄せ、飽きることなく車窓から日本海の海に見蕩れていた。自然の景観とはいえ遮るもののない日本海の海岸線をたっぷり眺めていると旅情を掻き立てられる。

A巌門――日本海の荒波が数千年かけてできた、切り立った断崖(海食崖)と浸食でできた洞門(海食洞)。満ち潮の時は船も通れる。夕陽がきれいという。日本海の波の力強さと能登の自然の厳しさを象徴している。

B「能登金剛」――「ヤセの断崖」は松本清張の「ゼロの焦点」の舞台となったところである。海面から35mもある断崖で、立つと足がすくむ。話題となった頃、本は読んでいたが細かいことは忘却している。一帯は「能登金剛」と呼ばれ、荒々しい断崖、奇岩が連続する男性的でダイナミックな海岸線が続く。日本海の厳しさと美しさを堪能させてくれる能登金剛の光景である。時間が許せば海岸まで降りてみたかった。娘も残念がった。途中機具岩(はたごいわ)も見えた。しめ縄でしっかり結ばれた夫婦岩で別名「能登二見岩」ともいわれる。

能登半島の西側・日本海に面する海岸線は、千里浜なぎさドライブウエイのように長い海岸線があるかと思うと、能登金剛のような荒々しい海岸線ありで変化にとみ、自然のなせる業は驚愕に堪えない。

C総持寺祖院――曹洞宗の大本山として1321年(元亨元年)創建されたが、明治31年火事でほとんど消失した。これを機に布教伝道の中心を横浜の鶴見に移された。山門、仏殿など再建されて曹洞宗大本山の面影をしのばせ、今も一大聖地として威厳を保っている。

まつが前田家の冥福を祈るために建てたという「芳春院」がある。

「石川県輪島漆芸美術館」へ立ち寄った。―日本芸術院所蔵作品展―・「美の殿堂への誘い」が開催中であった。鹿児島出身の「帖佐美行」の作品「火の鳥」も展示されていた。

輪島塗の作業工程の流れに興味を持った。お椀ができ上がるまでの過程が展示してあった。

D輪島

6時前に宿に着いた。日本海に面した「米久」。

海に近い輪島、夕食に珍しい海草鍋が出た。「つるも」、「かじめ」、わかめ、豆腐、ねぎだけのあっさり昆布出しの鍋料理で、外食続きの旅では海草は淡白で胃にやさしかった。

つるも、かじめは輪島特産の海草のようで七尾の海鮮市場にはなかった。海女がもぐって獲るらしく朝市、白米の道の駅で売っていた。つるもは色も食感も糸こんにゃくに近い。

夕食後、駅前の野外で催される、無形民俗文化財「御陣乗太鼓」見学に他の泊り客と一緒に出かけた。説明があり、上杉謙信の能登攻めの際、村人が怪奇な面をかぶり、海草を身に着けて陣太鼓を打ち鳴らし、上杉勢を追い払ったいう古事にちなむ郷土芸能。鬼気迫るような激しい身振りと太鼓のばち)さばきに不思議な世界を感じる。

部屋から日本海が臨め窓いっぱいに視界が広がっている。目覚めて、カーテンを開けると東の空の雲間に朝日が見え漁船が出入りしている。岸壁で釣りを楽しんで人も見える。しばらく眺めていると緑地に駐車していた車の数が1台減り2台減りしていった。左手に見える輪島港からフェリーが出て行く。たぶん倉島(へぐらじま)へ向っているのだろう。

輪島は朝市を楽しみにしていた。朝市だから早朝から市が開かれるかと思っていたら10時ごろに開き昼過ぎには店じまいするという。

白米(しろよね)の千枚田

輪島から曽々木に向かう国道249号沿いにある。
海に臨む急斜面に1000余枚の水田が並んでいる。
壮観な風景に農民の苦労が偲ばれる。
千枚田を背景に。
輪島の朝市      お客さんが少ない。

その前に白米(しろよね)の千枚田」へ行くことにした。輪島から国道249号をバスで20分ほど北上した白米地区にある。海に臨む急斜面に作られた水田、1000枚あまりが幾何学模様を描いて並んでいる。耕地が乏しかった頃の工夫が感じられる。道の駅のポケットパークからの眺めは朝の陽を浴びて一面田んぼの緑一色で壮観であった。

急いで戻って朝市へ向かった。11時頃着いた。「輪島の朝市」は農民と漁民の物々交換から始まったという。どんなものが売られているか一通り見て歩いた。人の流れも少なく覘いていると客を呼び込む声が飛んでくる。鹿児島の金沢物産展(於山形屋)に毎年出展している店に出会った。味付けしたあわびやサザエの真空パック入りを“私が作った製品です”としきりと勧められる。帰りにと言ったらしっかり覚えられていて“鹿児島のおねえさん”と呼び止められた。これも何かの縁と思い酒のつまみに求めた。

一巡りした印象は買い物客が少ないこと、かにサザエは多いが、鮮魚類はあまりなかったので意外であった。珍しい魚介類を見られるかなと楽しみにしていたのでちょっとがっかりした。夏場で路上の出店では仕方のないことかもしれない。12時が過ぎたら店じまいが始まった。写真や映像で見る冬の防寒着にふくれたおばさんたちが商っている姿のほうが北国の市には似合っている。

駅周辺は整然とした町並みになっているが、人通りも少なく活気のある町には見えない。交通の便がよくなり輪島は金沢からの日帰り圏内になっているようだ。昨年輪島空港もでき東京から直行便が飛ぶ。人の流れが変わるのだろうか。


V.能登最大の温泉地「和倉」

午後1時の路線バス(特急)で和倉へ向かった。路線バス最終便である。ずいぶん早い終便と思うが、輪島〜和倉はバスか車でしか直行できず交通の便が悪い。輪島から4人乗車して和倉駅で降りるときも4人の乗客のみ、所要時間1時間。

@和倉温泉

和倉温泉は1200年前、猟師が沖で海中に沸くお湯で傷を癒す白鷺を見つけたことから始まり、現在は一大温泉リゾート地になっている。宿は西に位置する「多田屋」。

全室七尾湾に面している。部屋係りに“天気がよければ目の前の七尾湾に沈む夕陽を見ることができるのですよ”と聞いた。あいにく今日は曇り空で残念!

早く着いたのでほかのホテルの湯めぐりへ出かけた。界隈で一番大きいホテルの加賀屋へ。着替えの袋をぶら下げての軽装で泊り客でもないのに玄関で10人ほどの出迎えが“いらっしゃいませ”と丁寧な挨拶をされ、ちょっと場違いな格好で気恥ずかしい。

大浴場内に温泉が飲めるようになっていたがちょっと塩っぱい。

七尾湾

入浴後宿へ戻った。
窓辺に座って七尾湾を眺める。曇っているが波は穏やかで能登島も望める。能登半島の東と西では海の表情が違う。日本海側は荒波が怒涛のように打ち付けている。七尾湾側は海岸線も緩やかで海面も静かである。
翌朝は小雨が降り出した。目覚めて岩風呂の露天風呂へ行った。眼下に七尾湾が広がっている。
顔を風呂枠の岩にあずけてちょっと霞んだ湾をぼんやりと眺めた。浴槽内に小さな雨粒がポツン、ポツンと落ちて水面にゆっくりと弧を描く。1弧、2弧・・・心身ともに寛げる空間(ゾーン)である。

この宿には哀しい物語があった。

先代のおかみに(まつ)わる話である。浴室へ行く途中廊下に貼られたセピア色の写真が目に留まった。説明を読んでいった。このおかみは旧鍋島藩子爵の令嬢であった。

子爵家の運転手の夜間大学生と恋に落ち、身分の違いで許されず、駆け落ちして昭和のはじめに
和倉に来ている。

4人の子供に恵まれ幸せに暮らしていた。ある日湯加減をしているとき誤って熱湯の湯ぶねに転落した。それがもとでS13年に(43歳の若さ)亡くなっている。短い一生である。長男を膝に抱いた写真、卒業証書、生前使っていた小間物などが展示してあった。

A能登島

昼過ぎ観光バスで能登島へ渡った。

まず橋の手前にある「七尾フィシャーマンズワーフ能登徒食際市場」に寄った。能登の新鮮な魚介類に目がいく。お目当ての岩牡蠣もある。宅急便送りにした。鮮魚も活きのよいものが多い。やっと地場の魚介類にめぐりあった。はちめ(めばる)白貝は珍しい。

能登島は佐渡よりちょっと大きい島だが22年前(S57)に橋が架かり陸続きとなった。能登大橋を渡る。半農半漁の町で、2004年10月には七尾市と合併する。橋は全長1050mで現在は無料。

能登島水族館に入った。能登半島近海にすむ生物を中心に展示されている。童心に返って初めてイルカショーを見てみた。


W.再び金 沢へ

和倉駅からJR特急「サンダーバード」に乗車して金沢へ6時に着いた。

この晩は荷物の整理をして早めに休んだ。

帰京の日は午後4時過ぎの便に乗るのでもう一度浅野川周辺へ出かけた。金沢の旅の名残に昼食は近江町市場に近い「茶寮(さりょう)不室屋(ふむろや)」で摂った。1865年創業の麩専門店で蔵を改装した趣のある食事処で茶室風の部屋は風情がある。会席風の麩尽くしの料理で見た目もきれいでヘルシーでした。冶部煮も輪島塗のお椀に盛られと、品よくより美味しそうにみえる。

今度は冬に来て越前ガニとかぶらずしを食べたいと、どこまでも食い意地のはっている母と娘である。

午後6時前に羽田に着いた。

娘と別れて空港近くのホテルに一泊し、翌7月18日に無事帰り着いた。


旅の途中に新潟の集中豪雨、戻る頃には福井県まで、TVで惨状を観て予想できないこととはいえ鹿児島の8・6水害を想い出し胸が痛んだ。両県の間に位置する石川県は殆ど雨は降らなかった。間隙をぬって行ったようで幸い何事もなかったが、のんびり旅をしていてちょっと後ろめたさも感じた。真夏の旅行で暑さを覚悟していったが暑い日差しの日は少なかった。

金沢、和倉周辺は交通の便がよかったが能登地方は足の便が悪い。公共機関の乗り物がうまく繋がらず、効率よく周るにはマイカーが一番のようだ。夕刊(7/31日付)で、1966〜2002年まで、「金沢〜珠洲」間の能登路をJRが走っていたと知る。2年違いの差で乗れず残念です。よく歩きよく食べた金沢旅行だった。

特筆することは、昔のお茶屋の内部を初めてみたこと.。加賀藩が文化を育てたこと。
それが維持され伝承されていること。家・町並みともに古い日本のよさと情緒が残っていることである。
日本文化のよさを肌で感じた金沢真夏の
旅でした。


                                                      2004.8.4記

20041210日、羽田で次女と落ち合って7月に続きこの年二度目の小松空港に降り立った。遠目に見える連山は雪を抱いている山もある。

二度目の金沢旅行を思い立ったきっかけは只単に越前ガニを食べたいという食い意地に他ならない。夏訪ねた時はカニのシーズンでなく、食べられなかった心残りを年内に片付けてしまおうと思いついただけのことである。思いついたら走り出していた単純な母娘である。只それだけのことにすぎない。今回は南部の山中温泉を主に金沢と2泊3日の旅行である。


山中温泉

空港から加賀温泉までは特急バスで25分。風もない穏やかな冬の日で目指すは加賀温泉郷の山中温泉である。加賀温泉郷は粟津、片山津、山代、山中の4湯からなる。JR加賀温泉駅に着いて宿の送迎バスに乗った。山中温泉は中でもとりわけ自然に恵まれている。町の中を貫流する大聖寺川(だいしょうじ)が渓谷を造りだしている。松尾芭蕉が草津、有馬とともに扶桑三名湯とたたえたことでも知られる。大聖寺川沿いの道なりに走っていくと落葉した桜並木が続く。桜シーズンも見事な景色であろう。源平橋を渡り毛塚町に在る宿「お花見久兵衛」に着く。山中温泉では奥まったところに位置している。

全室から大聖寺川の渓谷が眼下に見下ろせる和風旅館である。

部屋係の仲居さんがいて食事は部屋へ運んでくれる。お目当ての越前ガニが一尾丸ごと出てきた。茹で加減、塩加減のバランスが絶妙に良い。カニを食べ始めると無口になる。温泉に入って翌日のスケジュールを決めながら寛いだ。

山中温泉を散策するにはバスが運行されている。「やまなかいい花お散歩号」に乗って、街中を周るコースと鶴仙渓遊歩道を歩くコースがある。

まず大聖寺川沿いの鶴仙渓遊歩道をゆっくり歩いて散策することにした。遊歩道は「こおろぎ橋」から「黒谷橋」」の間の約1.3kmにわたって整備されている。
俳句の嗜み、心得はないが、芭蕉ゆかりの地もあるのでそのへんのことも知りたい。渓谷に架かる7つの橋のうち「こおろぎ橋」と「あやとり橋」は渡ってみたい。

高瀬大橋をわたり石川県指定文化財「無限庵」へ入った。ここは加賀藩の家老・横山家の書院を移築したもので、当時の建築技術の粋を集めた武家書院造りといわれている。尾形光琳の扇、古九谷、加賀蒔絵の漆器などの古美術品を一般公開している。千利休の書状の掛け軸も展示されている。

庭に出てみると川沿いに紅葉が見える。下る程に紅葉の色が赤みを増している。すれ違いざまの中年夫婦に「河原からこおろぎ橋がきれいに見えますよ」と聞いた。下っていくと大聖寺川の河原へ出た。庵風の一軒屋があった。屋根はこぼれ落ちた色とりどりの紅葉に覆われ、辺りの地表も紅葉を纏い、今も小雨と風に吹かれて舞い散っている。木立越しに見る眺めは詩情と風情ある佇まいである。ちょっぴり感傷的になり詩人にさせてくれる。川から右手川上に「こおろぎ橋」がみえる。その下を流れる大聖寺川の渓流は、橋と、流れと、紅葉が融合して素晴らしい景観である。

「こおろぎ橋」は鶴仙渓に架かる総檜造りの橋で山中温泉を代表する名勝地。芭蕉や夢二など多くの文人墨客も訪れている。かってテレビドラマの舞台にもなった。

こおろぎ橋を渡ってみる。橋の命名の由来は、かって行路が極めて危なかったので「行路危」と呼ばれたという説と、秋の夜になくこおろぎに由来するという説がある。芭蕉はここでかがり火を焚いて川魚を捕る光景を見て「いさり火にかじかや波の下むせぶ」と詠んでいる。橋の袂に句碑も建っている。

橋を戻って川沿いの遊歩道を散策する。遊歩道側は山でところどころに「熊に注意!」が表示してある。夕方早朝が危険とある。日中の歩きだったが、最近TV報道であちこちの土地で熊に襲われたニュースを聞いていたので用心しながら歩いた。対岸は赤く染まった紅葉が多い。暖冬のせいか12月に紅葉狩りとはうれしい! 川の水量が多いと感じたがダムの放流によるものらしい。景色に見蕩れながら歩いていたらいつの間にか芭蕉堂まで来ていた。芭蕉が逗留中に訪れ「行脚の楽しみここにあり」と喜んだ地で、芭蕉を祀る御堂。腹時計はペコペコ。

昼食をとるため黒谷橋を渡って街中の通り「ゆげ街道」へ出た。昼食後ギャラリー、和菓子屋、土物店を覗いてみる。「ゆげ街道」通りの店や道路は整然と整っているが、筋に入ると道幅も狭く昔の温泉宿らしい家並みが残っている。新旧の街並みがうまく溶け合っている。山中節のメロディーが流れている。情緒ある温泉まちである。「湯めぐり」で大聖寺川沿いの河鹿荘ロイヤルホテルへ。娘は温泉へ入ったが私は一休みしてデッキに出てみた。ここからの紅葉の眺めも素晴らしい。陽にかざされた紅葉がまぶしく、木の葉越しに多くの人が対岸の遊歩道を歩いている姿が見える。「あやとり橋」を渡ってまた街中へ出た。「あやとり橋」は形がユニークでS字型をしており、あやとり遊びの橋型をイメージしているという。「勅使河原宏」氏がデザインした。

橋を戻って「やまなかいい花お散歩号」に乗車した。

乗り降り自由のバス停が16箇所ある。旅館の女将さんがガイドであった。説明ではご当地の言葉やアクセントが混じり、その語り口からほのぼのとした優しい響きが伝わってくる。場所によっては見物する時間停車して待っててくれる。ほぼ一周した。ゆったりした気分で回れて、有りがたい。地元との密着感を自然に感じさせてくれる散歩感覚で乗れるバスであった。

山中温泉バスターミナルで降りて路線バスでJR加賀温泉駅へ。

〜山中温泉・こおろぎ橋
〜山中温泉・鶴仙渓谷〜   〜あやとり橋〜
〜金沢城公園前の雪吊り〜
   暖冬で雪は未だ。

金 沢

特急に乗って金沢へ着いたのは8時頃になっていた。夏訪ねた時「ライトアップバス」に乗り損ねたので乗りたかったが、到着が遅すぎた。山中温泉でゆっくりし過ぎてしまった。宿は金沢駅より2分の都ホテル。夕食に「治部煮」が出て、「金沢と治部煮」はセットでイメージできるようになった。ゆっくり休んだ。

最終日は3時過ぎの飛行機に乗る。午前中に前回行かなかった所をまわることにした。

兼六園近くの「西田家庭園・玉泉園」へ行ったがこの時期は閉園となっていた。池泉回遊式の庭園を見てお茶をいただこうと思って開園時間に合わせて出てきたのに残念であった。隣の「加賀友禅伝統産業会館」に入館した。

加賀友禅は高価なものとの固定観念がある。加賀友禅と結城紬は染めと織りの双璧である。

せめて目の保養なりとしようと思って中に入った。1Fで女性が友禅の色刺しを実演していた。説明の人の話では1年ぐらいでできるようになると聞いたが緻密な手仕事である。「話しかけないでください」と貼り紙が目に付く。

丁度ブライダル用の展示の日であった。鹿児島から来たことを告げると組合の人が説明してくださった。伝統工芸でもある加賀友禅に携わる人が減っているという。女性のほうが多く元気がある。男性は生計がかかると厳しいらしい。鹿児島の大島紬の実状も話しながら反物を眺めた。日本人の着物離れが影響している。

その後、金沢城公園の「石川門」を見て園内を少し歩いた。ここは前田利家の居城だったところで一時は金沢大学のキャンパスでもあった。

兼六公園近くで昼食を済ませ、小松空港へ向かった。

羽田へは全日空機だったので、12月1日オープンしたばかりの第二ターミナルに到着した。

見物客もあるようで人出が多い。夕食を済ませて帰ろうとレストラン街へ行くがどこも並んでいる。蕎麦で済ませて娘と別れた。鹿児島へはJAL便なのでひたすら歩くエスカレーターで第一ターミナルへ向かった。最終便で帰宅してヤレヤレ!!(ほっとした)



  • 北国の12月にしては暖かく鹿児島と変わりなかった。
  • 山中温泉は加賀温泉でも奥まったところにあり、人情豊かなしっとりと落ち着けるところであった。
  • 最後の日に「近江市場」へ行って新鮮な魚介類を食す予定で計画していたが、日曜日とかち合って生憎市場は休みで残念!!                        2005.1.11

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