★ 日々のことを気のむいた時に書きます


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2005/3/15() 晴れ M夫人の訃報

一昨日M夫人逝去の知らせがあった。

約1年の闘病生活で帰らぬ人となり残念でならない。70半ばであった。

癌は生への縋るようなおもいも見逃してくれず残酷である。

お通夜に夫とお参りに行った。

祭壇の中央に飾られた遺影はにこやかな表情で微笑み、今にも語りかけてこられそうな錯覚を抱かせた。両側の壁面は美しい夫人にふさわしい花輪で覆いつくされていた。

在りし日のご家族との写真を見ながらその生涯をおもった。
初孫さんの誕生を喜んで満面に笑みを浮かべて話された時のことを想い出す。

夫の上司夫人で、私は高校の大先輩(旧制の)でもあった。

何事も手抜きすることなく全力投球する人生のお手本となる婦人であった。お茶、生け花、習字、日本舞踊、社交ダンス、カラオケ・・・

ユーモアのセンスもあった。
1〜2年前のことである。夫が街で偶然逢って、葉書を取り出し“主人から投函するように頼まれていたの。よい所でお会いしたわ、こちらがHさん”と手渡しされたと帰ってきた。

偶然も偶然なら「直接手渡しの葉書」を受け取る郵便ってあるの?と面白く笑ったこともあった。

賢夫人で華のある女性であった。惜しまれる。

心よりご冥福を祈る。

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2005/2/19(土)曇り時々晴れ 世界遺産『レジデンス』

雨の日が続き気が塞ぐ。

昼過ぎ青空が覗いてきたので待ち構えていたように洗濯を始めた。

干し場に行こうと足を止めてテレビの画面を見遣った。階段と天井画が映っている。

見覚えのある画像のようである。確認したいと思って画面の前に座った。階段と天井画の四方が映し出された。直感で、もしかしたらヴュルツブルクの世界遺産『レジデンス』では?と思った。しばらく画面を眺めていたら、ナレーションの説明で紛れもなく『レジデンス』であった。

中世の司教都市であった「ヴュルツブルク」は200412月のドイツ旅行で見学した。つい2ヶ月前のことである。

その時『レジデンス』の天井画部分は修復中であった。白い布に覆われていて見ることが出来なかった。

イタリア・ヴェネチアの画家「ティエポロ」のフレスコ画である。

ちょっと残念なおもいをしたが、今、画面に修復が終わった天井画の全容が現われた。アーチ状の天井に天空を舞う女神が姿を現した。

「階段の間」と言われているが、階段から天井画に向かって柱一本無い広い空間が広がっている。改めて中世の司教の権力と芸術への飽くなき追及を知るおもいがする。

何気なしにテレビの画面を見遣った偶然が、素晴らしい遭遇をもたらしてくれた。

ふと暦を見ると大安とある。私にとっても幸運の日である。

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2004/8/11(水)晴れ  霧島国際音楽祭

今年は霧島国際音楽祭が始まって25年目、「ヴェートーヴェン――その音楽と宇宙」をテーマに、「苦悩をつきぬけて歓喜へ」と題して霧島の「みやまコンセール」で開催された。

月8()、そのファイナルコンサートを聴きに行った。

演目は初めにバルトークの作品を弦楽四重奏のアンサンブルによる演奏であった。

そして最終章は「歓喜の合唱」と題してヴェートーヴェンの交響曲「第九」番が演奏された。

指揮―ゲルハルト・ボッセ

ソリスト  渡辺美佐子(ソプラノ)

     坂本朱(アルト)

     錦織健(テノール)

     池田直樹(バス) ※ 鹿児島県蒲生出身、二期会副理事長

合唱   神戸市混声合唱団、地元アーティスト

オーケストラ  ストゥリング・アンサンブル・キリシマ

ヴェートーヴェンの「第九」は、日本では年末に演奏されることが恒例のようになっている。今日は緑豊かな霧島の草原に建つ「みやまコンセール」で真夏の「第九」を聴いた。

この会場は収容人員770人だが音響がいいことで定評がある。

ソリストもリサイタルやテレビ・ラジオで活躍している錦織健、地元鹿児島県出身・二期会副理事長の池田直樹、女性シンガーも二期会で活躍中の人である。
満席、顔馴じみの出演とあって場内は一段と熱い。

交響曲「第九」番は、合唱、ソリスト、オーケストラの音が一つに溶け合って緑豊かな霧島で声高らかに歌い上げられた。

弦の音色とソリストの豊かな声量に魅了された。

戻り道の車窓から道端に咲いている萩が視界に飛び込んできた。

霧島近郊の里には少しずつ秋の気配が忍び寄っているようである。

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2004/8/5(木)晴れ  我ながら?

去る7月11日のことである。今日から1週間金沢・能登地方へ旅に出る。

航空券はティケットレスで予約していた。予約番号は予めプリントして、数日前にハンドバッグにいれていたのでそれを持参するだけでよかった。

12時の便に搭乗するので10時に自宅を出ればよい計算であった。6時に起床して、洗濯、夫の昼と夜の食事を準備した。鹿児島空港に11時前に着いた。

搭乗手続きのカウンターへ進んだ。予約番号を提示して待った。普段より手間取るなーと思っていたら、“この便はもう出発しております”
“ええっ!どうして?”プリントを確認してやっと自分の間違いに気づく始末。

自分の頭の中では12時発と思っていたので、前夜プリントを確認することなく空港に着くまで信じて疑わずにいた。そして予約したときのことを(搭乗日の約1月前)思い出したのです。

鹿児島発を10時か12時発のいずれかの便に搭乗すれば、娘と落ち合って羽田から小松行きの便に間に合う計算でした。そのとき早く行って羽田でゆっくり昼食でもしようと10時発に決めたことを。そのことを空港に着くまですっかり失念していました。

12時の便の空席があるとわかって急遽購入した。手続きを済ませてから娘へ12時の便になったことを電話した。この便に乗れば小松行きの便に間に合う。その結果、小松便に乗れて事なきをえたが気は焦り慌てた。なんという際どい旅のスタート! 

10時発便はフリーのティケットだったのに、自分の不注意が因で12時の便は料金発生した。空席があり30% offで買えたので内心ほっとした。もしなかったら金沢行きは吹っ飛んでしまうところだった。

娘に“空席があってよかったね、その分マイレージが貯まるよ”と慰められた。

常日頃メモをとるよう心がけてきたつもりが、メモを見なければ意味のないことである。なんだか自分の記憶力に自信がなくなってきた。これも老化現象の顕れでしょうか。それとも真夏の昼の夢?

しっかりして!!

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 2004/7/22(木)晴れ  岩牡蠣

7月半ばに金沢へ行ってきた。

和倉から能登島へ行く途中、七尾市にある能登食祭市場に寄った。
生鮮市場に能登近海で獲れる新鮮な魚介類が並んでいる。
お目当てはこの時期獲れる天然岩牡蠣である。

宅急便で自宅送りとした。

今朝9時ごろ七尾海鮮市場で宅急便依頼した海産物が届いた。
天然岩牡蠣、白貝、サザエ、干物などである。

素人が天然岩牡蠣を開けることは難しく、以前大変なおもいをしたことがある。生食したいのに身を傷つけたりする。そのことを店の人に話したら、牡蠣に開け口を作って送りましょうと言われた。なるほど簡単に開けることが出来た。

塩水で洗いレモンをギュッと絞って食べた。大粒で丸々太った牡蠣はジューシーで口の中でとろけるように濃厚な味がした。
牡蠣は「海のミルク」と呼ばれるように栄養的にも完全食品である。必須ミネラルの亜鉛の含有量が多い。

鹿児島ではアオヤギ貝のことを白貝と呼んでいるが、能登の白貝は初めて食した。

平たい2枚貝の中にぎっしり身が詰まって一見してホッキ貝のようである。舌の色は肌色で歯ごたえといい食感はホッキ貝に近い。値段も1個100円ぐらいでホッキ貝よりずっと安い。やみつきになりそうな貝である。サザエのつぼ焼きも柔らかい。

新鮮な海の幸いっぱいの夕食は飛びっきり美味しくご満悦であった!!

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  2004/719(月)、7/20(火) 晴れ   梅の土用干し

朝から真っ青な夏空が広がっている。

旅行から戻ってみると梅雨明け宣言も出ていたので、梅の土用干しを始めた。一度に全量(30kg)干せそうもないので今日は半量を干すことにした。

炎天の中、梅を一粒ずつざるに並べることも裏返すことも大変な作業である。量を減らせば作業は楽かもしれない。申年の梅は縁起もいいらしい。毎年私の梅干を待っていてくださる人があると思うと気も入り、何より梅干しをはじめ食品加工は大好きである。梅醤油、梅サワー、梅酢味噌、梅焼酎の加工もした。

取り入れる頃は紫蘇に染まった梅が土用の陽をたっぷり浴びて赤みを増し、干しあがったばかりの梅から生唾が出てきそうな匂いが辺りに広がる。1粒つまんで頬ばってみる。

酸っぱさも水分が凝縮されてまろやかな酸味に感じる。干しあがったばかりの梅干しを入れて熱々のご飯で握ったお結びは最高である。干しあがったばかりの梅干の風味はこの時期だけしか味わえない、市販のものではできない、一際手作りの良さを感じる時である。

通りすがりの小筋に入ったとき、マンションの駐車場で車のボンネット上にざるらしいものを乗せて横に男性が立っている。
手に箸を握っているように見えたので寄っていってみると梅を干し裏返しているところであった。

見ると大粒で「南高梅ですか?」「そうです、自分で作ったものが一番です。お結び用は小粒で作りました。」年のころ40代、家族用にお父さんが梅干を作っているところを目の当たりにして家庭の雰囲気まで伝わってくるようで私も和んだ。

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 2004/5/30 (日) 晴れ  ジャズコンサート

5月末に、次女の誘いでジャズバンドのライブ演奏を聴くために上京した。

5月30日、「100人のビッグバンド」と銘うったアマチュアのジャズのライブ演奏が砧区民会館で開催されて、息子夫婦、長女それに私の4人で聴きに行った。

コンサートは「ジャズファクトリーオーケストラ」と「多摩ジャズワークショップオーケストラ」の2つのジャズバンド100人の合同演奏でオープニングの曲「明日があるさ」で始まった。

次女はアマチュアのジャズバンド、「ジャズファクトリーオーケストラ」の一員として趣味でアルトサックスを吹いている。彼女は大学時代にアルトサックスを始めたが、社会人になって中断していた。数年前によい指導者にめぐり遭い再開した。
プロの木村功氏
(昔俳優に同じ名前の人がいた)の指導のもとに毎週土曜日に4時間の練習をしている。ここ数年はアメリカまで本場の演奏を聴きに出かけている。

この日の彼女の出演は2ステージである。
彼女の団員全員による演奏と10数人の定数バンド演奏であった。

木村氏は司会での話し方もユーモアがあり曲の紹介でもつい熱が入り時間オーバーになる。ジャズへの情熱、音へのこだわりのようなものが伝わってくる。団員は社会人が中心で10代後半から60代までの幅広い年齢層で、母(ピアノ)と息子(打楽器)、父と息子、福井や長崎から毎週練習に参加している猛者もいるという。

6人のプロゲスト出演者があったが、さすがに音色が違う。
会場は熱気ムンムンしている。

ソロの演奏も好きである。ジャズアンサンブルはダイナミックで繊細、エネルギッシュでパワーに溢れている。休憩なしの3時間ぶっ通しの演奏会であった。

久しぶりに体でリズムをとりたくなるような、軽快な、血の騒ぐような、ジャズ音楽のライブ演奏を聴いて気分まで若やぎ楽しい。元気も出てきた。次女のライブ演奏を聴くのは初めてであった。仲間と演奏している姿は活き活きとして輝いている。

終わってから長女が予約しておいた渋谷にある「スペイン料理」のレストランへ向かった。次女も少し遅れてやってきて、一緒に揃って食事が出来てよかった。
サングリア、シャンピニオン・ア・ラ・プランチャ(マシュルームの鉄板焼き)トルティーヤ・エスパニョーラ(スペイン風オムレツ)、パエリア、ハモンセラーノ&イベリコ(スペインの生ハム)など皆で取り分けて食べたらどれも美味しかった。
食事をしながら今日のコンサートの模様など話題が広がり楽しい夕食になった。

10時半過ぎに渋谷駅で別れて、息子夫婦は車で門前仲町へ、次女は電車で練馬へ、長女と私は新丸子へ戻った。久しぶりに子供達全員と食事が出来て楽しい雰囲気の夕食であった。
留守番の夫は今夜の夕食は何を食べただろうか。

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2004/5/9(日)雨  母の日

今日は母の日。くもり空から雨が降り出した。

例年の慣わしでお世話になっている人へ、新茶を贈るために山形屋(デパート)へ出かけた。母の日だが数日前のような混雑はなかった。

先だって鹿児島のこのデパートに「ルイ・ヴィトン」のブランドが参入して、数日間は行列ができたようだ。1Fフロアのディスプレイも変わり、若い人を惹きつけるような品飾りになっている。正面玄関を入るとブランド物や装飾品が多く、東京辺りのデパートに入り込んだような感じがする。

紳士靴やYシャツ売り場は見当たらなくなっている。デパートの顔ともいうべき1Fフロアは女性物で占められている。買う人も女性、財布を持っているのも女性ということでしょうか。
そのとおりです! わが家も然りです! 世の善良な殿方、油断を召されますな。財布の紐はがっちり女房どもに握られ、働き蜂は尻を叩かれているのですよ。

東京に住む娘とお嫁さんから母の日のプレゼントにアートフラワーが送られてきた。プリザーブドフラワー(Preserved flower)といって特殊加工によって生花と変わらぬ美しさを何年も保つことができる花だという。

昨年息子と結婚した閑子さんは、当たり前のことだが昨年と違い、送り名が新姓になっている。新鮮な感じがしてわが家の家族になったという実感が湧いてくる。
長崎に住む母へもプレゼントを贈った。80半ばであるが妹家族と元気に暮らしている。昨年息子の結婚式では東京まで来てくれて喜んでもらえた。長生きして欲しいと願う。

「母の日」・・・ プレゼントを贈る側であり、頂く側でもある。その両方の立場になれる現在の自分を幸せと思う。夜は3人の子供と閑子さんの声も聞けた。
母の日にありがとう!!

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2004/3/20(土)くもり フランス近代絵画展

鹿児島県民交流センター開館一周年記念事業として、松岡美術館所蔵「フランス近代絵画展」が、今日から4/29まで交流センターで開催されている。

はじめ初日は混むのではと躊躇したが、出かけていった。夫も私も交流センターに行くのははじめてであった。駐車場も広く館内も広い。ここは旧県庁跡地に建設されたもので、敷地内には一部旧県庁の名残が残っており、かって勤務した2人には懐かしい。

2Fの会場に入るが、初日にしては思いのほかギャラリーは少なくゆっくり時間をかけて見ることが出来た。一点一点詳しい説明書きがあり会場が広いので少し引いて絵を鑑賞できて満足!

松岡美術館所蔵の37作家・約80点が展示され見ごたえ充分であった。
フランス近代絵画の19世紀後半の印象派から1930年代までの作品を一堂に展覧してある。主な作家は,
モネ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、ピカソ、ユトリロ、モディリアーニなどであった。

今回印象に残ったことは
  @「アルベール・マルケ」のパステルカラーで港を描いてある作品が目
   とまった。季節は春・ふと今頃を描いたのだろうかと思いながら、
   色使いが淡く手前の景色、海、遠景の空の線がサンライズ、
   サンセットを連想させた。


     A「ユトリロ」親子(母と息子)の作品。
    ユトリロの母についてはよく知らなかった。戻ってからネットで
   検索してみた。

母「シュザンヌ・ヴァラトン」はルノワールやロートレックのモデルであり、愛人でもあった。自然と自身も絵筆をとるようになったようだ。モデルをしたりしてドガの目にとまって注目される

ユトリロは「白の画家」と呼ばれ、家並みや壁を描いた白っぽい絵が多いなか「オルテーズのサン=ピエール教会」 1923年は珍しくカラフルな絵である。息子のユトリロは私生児である。ユトリロは10代から酒におぼれて、アルコール依存症のため精神を病み、母親とはあまりよい親子関係ではなかったらしい。
親子で画家だったことをはじめて知り、会場で隣り合わせに展示してある親子の絵を同時にはじめて見た。

もう少し美術史を知ってく必要があると感じた。

絵を見ながら半ば頃まで進んできたら背後で夫が人と話している。知人にでも会ったのだろうと思っていた。話が済んだのか寄ってきて、地元新聞記者の人で「あとで絵画展の感想を聞かせてほしい」といわれたという。
それでペンとメモ書きを持っているのかと思ったら、「あんたが話してくれ」というではないか、まあいいかと思いながらやや時間をかけて鑑賞した。
.

見終わって出てみると記者の姿は見当たらない。やや昼を過ぎており昼食にでも行ったのだろうと話しながら、半分ほっと、半分残念の複雑な気分で会場を後にした。気になって翌日の朝刊を見たら女子大生を取材したコメントが出ていた。

松岡美術館は東京の白金台にあり1700点の収蔵品があるという。一度行ってみたい。

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 2004/3/14(日) 曇り  スペインの3駅同時テロ

3月11日午前8時前後(現地時間)スペインのマドリッド中心部の国鉄主要駅の3つの駅で連続爆発があった。3駅(アトーチャ駅、エル・ポソ駅、サンタ・エウヘニア駅)同時爆破テロで200人近くの死者と1000人以上の負傷者がでたと報じている。通勤客で混み合う列車を標的にした3駅同時テロである。

スペイン政府はスペインのテロ組織ETA「バスク祖国と自由」の犯行と断定している。ETAはバスク地方(スペイン北東部及びフランス南西部にまたがる地域)の分離独立を目的とする組織とある。きょうは、国際テロ組織のアルカイダも関与していると報じている。

2年前の同じこの時期に2人の娘と一緒にスペインを旅行中であった。超高速列車AVEに乗ってコルドバ駅からマドリッドへ移動したが約2時間要した。多分アトーチャ駅に着いて降り立っている。近くに有名なプラド美術館もある。

パリからバルセロナへ向かう機上から真っ白い雪に覆われたピレネー山脈を眺めることが出来た。きっとバスク上空も通過していると思う。バスク地方がスペイン、フランス2国にまたがっていることも複雑な要因なのだろうか?

2年前にテロがあったら、この事故に遭遇していたかもしれないと思うと、ぞお〜っとする。旅行前から治安が悪いと聞かされ、身辺に気を配ったことを思い出した。
スペインの引ったくりは複数で組んでいる、金や物品を盗られるばかりでなく刃物を持っていて危害を加えると聞かされた。横掛けのバックや首掛けの貴重品入れなど紐ごと引きずられて危険という。出かけるときは必要な小銭とビニールの手下げ袋程度がいいと。

旅行中はなにごともなく、見どころ多く、食べ物はおいしく、記憶に残る楽しい旅であった。

スペインでは過去最大級のテロというが、今回のようなテロが起こる土壌があるのだろうか?
世界で東西の垣根がなくなったかと思えば、南北、民族問題はなかなか解決しない。

テロによる犠牲者に合掌。

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2004/2/22(日) くもり時々小雨  「ライカ」のカメラ

くもり空から小雨になった。夫はカメラを受け取りに出かけた。

昨年ロシア旅行した時、モスクワ大学前の露店で買ったカメラ(1万円で購入)、「ライカ」の修理が出来上がったと連絡を受けたのである。修理代17000円。当初見積もりに出す時、もう少し高い修理代と思っていたが思いのほか安くあがった。

年末に出来上がる予定が、カメラやさんが病気で入院してしまい今日になった。カメラを入院(修理)させたら、修理やさんが入院してしまったと暮れには笑って戻ってきた夫も今日は笑顔で戻ってきた。

レンズもよいものですよと言われたとご満悦である。なが年、少年のような憧れをもっていたカメラを手にして、願いが叶えられニコニコしている。他愛ない男のロマンをみるおもいである。私は本当に写された写真を見るまでは傍観することにしよう。

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2004/1/1(木) 晴れ   初 詣

年が変り今日から2004年。

昨年はわが家にとって、息子の結婚、夫の叙勲と喜びの多い1年であった。
息子夫婦はお正月を東京でゆっくり過ごすことにした。

家族(夫、私、帰省した娘2人)でお屠蘇、おせち、お雑煮で新年のお祝いをした。新年の決意と昨年に引き続き今年もうれしいことが続く様に、そして健康で過ごせるようにとみな同じおもいである。

船会社に勤める夫は初船が入港する日で、昼前に出勤して船員の人の仕事始め式があった。

夫が戻ってから近くの護国神社へ初詣に出かけた。
昨日の雨交じりの天候と変わって今日は風もなく穏かな元日である。

例年になく人出が多く駐車場は足りず、近くの工業高校敷地の空き地が臨時駐車場になっていた。夫は年男、昨年の破魔矢を持って納めて新しく猿年のものを購入した。

獅子舞を見て泣き出す子供もいた。親はよく見えるようにと子供を前方へ押し出そうとするが、子供は怖がって必死で足を踏ん張っている。その親と子のせめぎ合いを見ていると思わず笑みがこぼれてくる。
甘酒もいただいた。おみくじは大吉と出て、今年も良いことありそうで正月早々縁起がよい。

夜はおせちとタラバガニのご馳走になった。カニは息子が依頼して送ってくれたものである。生から茹でたタラバガニは、脚肉、カニみそ共に新鮮そのもの、磯の香りたっぷりで例え様もなく美味しい。ご馳走様でした!

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2003/12/29(月) 年末それぞれに

宅急便が届いたと東京の息子から電話があった。栃木の塩原温泉に行ってきたという。

閑子さん(お嫁さん)が自分でぼんたん漬けを作ってみたと聞きうれしい。砂糖の分量がわからずネット上で調べたという。6月に結婚したばかりで東京の人である。作ってみようとする心がけは前向きで、手作りする姿勢は閑子さんのお母さん譲りに違いない。

挙式後新宅への引越しがあって、まだ旅行をしていなかった。来年6月新婚旅行へ(イタリア、ミラノ・ローマ・モナコ)行くことに決めたという。殆どマイレ−ジで行けるそうだ。結婚式費用をカード決済したからと言うが、現代の若者はいろいろな特典を利用してちゃっかりと言うか、しっかりしているといえば良いのか・・・。

正月休で帰省中の娘2人は今夜は城山H泊まり、夫は会社の忘年会である。私も娘達と一緒に温泉に入り夕食をして帰ってきた。ホテルの前庭のイルミネーションが見事でロマンティックな雰囲気がする。カップルや親子ずれが散策したりカメラで写真に収めたりする姿が見られ、穏かなゆとりのある年末を過ごしている。

「スカイラウンジ」に昼間夕食の予約を入れたが満席で今回は「滝の茶屋」で各自おもいおもいの料理を注文した。それぞれの料理を取り分けたりして、いろいろな味を楽しむことが出来た、年末のせわしい中、母娘3人でゆっくりのんびり語らいながら楽しい夕食のひと時であった。

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2003/12/24(水) お祝い

今日はクリスマスイブ。夕方の街はラッシュで車の進みも鈍い。

6時から照国神社近くの料亭「天」で夫の叙勲祝いをしてくださる。ここはかって鹿児島の老舗割烹「玉村」の在った隣りでなる。夫はH課長時代に玉村にはよく宴席でいっていた。今夜は夫婦同伴で招待を受けたので私も出席した。

今日のメンバーは夫と同じ高校O・Bで県庁をリタイアーした人4人、現職の人2人、私達夫婦の8人の集まりであった。“気心の知れた連中ばかり集まっています、心おきなく語り橋本さんのお祝いをしたい”とあいさつされた。夫も簡単に挨拶と招待された御礼を述べた。夫はかっての職場、同窓会を通じての知り合いである。

私はその中の1人に奄美在住時代に顔見知りになった人がいた。奄美では住んでいる公舎の前に職場の大島支庁があった。職員が公舎に出入りしたり、御用始の日には殆ど全員新年会に招待していた。それで私もかなりの職員の顔や名前を覚えることが出来た。仕事量の多い部署では平日、休日を問わず不夜城のように灯りがついて仕事をしている様子が見えていた。家族で赴任している人は夫人とも知り合いになり、10年経った今も奄美は懐かしい。

そんなことや、かって私自身も5年間勤務したこともあるので今夜の皆さんの話に違和感がなくよく理解できた。話のやりとりが面白く楽しく笑い転げるような場面も多々あった。掛け値なしで夫の受章を喜び祝ってくださる気持ちが話しぶりから、宴の雰囲気から伝わってくる。夫も嬉しそうで饒舌になっていた。

彼はこのような人たちに支えられて仕事をやり遂げられ、叙勲の栄に浴することが出来たのだと改めて感じた。そしてクリスマスイブにもかかわらず集まって、祝いの席を設けてくださったことが有りがたく心から感謝することだった。

今夜は胸に温かいものが流れ私にとっても嬉しい嬉しい集まりであった。余韻を楽しむように自然に足は天文館へ向き、山形屋近くまでぶらぶら歩いてから帰宅した。

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2003/12/19(金) 晴れ バスでいねむり?

冷え込みの厳しい日で、この冬初めてコートと手袋を着用した。ホケットにミニカイロもしのばせた。バス停に立っていると北風が頬を刺す。今日はパソコンのレッスン日。準備していく段取りが悪く、予定のHPつくりが進められず年賀状作りをした。

帰りのバスの中で居眠りしてしまった。バスが止まったところではっと目がさめて、外をみやると団地北である。下車するバス停よりひと停留所乗り越している、ここで降りそこなったら終点の北営業所まで行ってしまう。慌てて降りた。

降りてみたら4つ手前の停留所の日枝神社前で下車していた。慌てた勢いでよく確認しないまま降りたのだ。一瞬見た外の景色は団地北に似ていたな〜。ここからわが家まで歩いていける距離ではない、タクシーに乗る距離でもない。

外は薄暗くなり何一つ夕食の準備してないので気は急く。仕方なく次のバスに乗って帰宅した。今日は三隣亡の日かな。帰宅した夫に話すと“命を置き忘れてこなかったからよかったよ”と軽くいなされてしまった。

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