★ 自分の身近なところでおこった出来事、気付いたことをおもいのままに書きとめました。
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今年も又原爆記念日が巡ってくる。 筒井茅乃さん? どこかで聞いたことのある名前である。 2月はじめ地元紙の三面記事欄に、小さなおくやみ記事が載った。 次の欄に長崎の被爆者治療に尽力した永井隆博士の二女肝細胞がんで死去。66歳。 早すぎる死である。ここでやっと誰であるかを特定できた。結婚で永井姓が変わっていたからである。 永井隆博士のことは、映画「長崎の鐘」と表裏一体となって記憶している。 昭和25年、小学5年の時である。まだ太平洋戦争の傷は完全に癒えていない頃である。皆貧しかった。学校の映画鑑賞で「長崎の鐘」を見に行った。 50年余り前のこと、記憶も薄れて、場所は映画館、市立公民館のどちらであったかはっきり思い出せない。当時、学校から引率して見に行く映画はほぼ公民館であり、名画ではあるが古い映画であった。「長崎の鐘」は封切り間もない映画であったはずだから、映画館であったかも?・・・ 子供心にも原爆の恐ろしさを知り衝撃を受けた。今も演じた主演の俳優を鮮明に憶えている。永井隆を若原雅夫(故人)、妻みどりを月丘夢路(故人)。映画のタイトルと同名の歌謡曲「長崎の鐘」も流行り、今でも多くの人に愛されている。映画を見てから彼の著「この子を残して」を読んだ記憶もある。 博士は1951年(昭和26年)に亡くなっている。訃報はラジオや新聞で報道された。私も弟を亡くした年であり、よく記憶している。ということは彼が生存中に作られた映画であったのですね。 時は流れた。 2001年、同窓会旅行で長崎・平戸を訪ねた。その時、博士の住まいであった「如己堂」と「永井隆記念館」を見学している。 記念館の館長に、隆の長男誠一(まこと)が就いていることは何かの折に知っていた。彼は大学進学以後ふるさとを離れていたが、定年退職後長崎に戻っていた。一人の級友が「彼は最近亡くなった」という。その時はまさかと深く気に留めることもなかった。 今回知ることになったが事実であった。2001年4月肺炎で帰天、65歳。5月に長崎へ行っているのでその直前のことになる。 新聞で知ったおくやみ記事の中で、筒井茅乃の書に「娘よ、ここが長崎です」があることを知った。映画「長崎の鐘」を思い出し、読んでみた。 彼女は大学卒業後関西に住んで結婚して母親となっている。この書は祖母の法事に娘を伴って長崎へ帰省した時を基に書かれている。被爆40年目にあたり、平和の尊さを娘に語り伝えることでもあった。 叉この書は2007年、永井隆生誕100年に当たり新装版が発行されている。その中で、執筆した当時お世話になった人のなかには故人になった人もあり、その冥福を祈っている。娘もおとなになり、兄永井誠一(ながいまこと)が亡くなったあと、長崎市永井隆記念館の館長に、甥(誠一の長男)が就いていることも記している。 最近になって、他の記事で、「奇しくも永井博士生誕100年の記念行事を翌日に控えて亡くなられた茅乃さん。」とあった。 父隆の生誕100年の記念行事には、2人の子供、誠一(まこと)、茅乃両人とも故人となっていたのです。 永井隆の著書で映画化された「長崎の鐘」を見ているが、のちに「この子を残して」(1983年)も映画化されている。こちらは記憶にない。見ていませんね。 これも偶然であるが、TV出演している脚本家橋田壽賀子が語っている。 彼女は大学卒後、松竹映画会社に就職し、映画「長崎の鐘」の脚本家の一人であった。 女性は冷遇されている時代で、事務職に配置換えになった時に退職している。苦節の末、今や押しもおされぬ周知の脚本家になっている。
2008年は、永井博士生誕100年に当たる。今年の原爆記念日は、父、母(原爆で爆死)、息子、娘が天国で再会し、親子で家族団欒していることでしょう。 2008.8.4記 4月1日から発足した「後期高齢者医療制度」、 福田首相はその日のうちにネーミングがよくないと指摘し、名称変更を指示、通称「長寿医療制度」となっている。 長寿医療制度(後期高齢者医療制度)は、介護保険と同様に、被保険者1人ひとりに対して保険料を賦課・徴収される。 保険料は、個人単位で計算され、個人が納付する。
鹿児島県の例では 平成20年度・21年度の均等割額と所得割率
均等割額 45,900円 所得割率 8.63%
制度そのもの周知もさることながら、該当者の最大の関心事は自分の保険料である。 数日前、「後期高齢者医療保険決定通知書」が届いた。 夫は現在職を得ている。これまで被用者保険の被保険者本人であったが、「後期高齢者医療制度」発足直前に75歳になり、後期高齢者医療制度の加入者となった。 20年度の保険料額決定通知書を見て、その額の多さにびっくり仰天! 3月まで収めていた社会保険料の倍額ではないか、しかも夫の分だけである。妻も個人徴収される。わが家の医療保険料は昨年の2倍以上になる計算である。医療費は3割負担・・・ 家計を直撃、考えるだけでも末恐ろしい。 その他に 所得の見直しが2年ということも高齢者いじめである。 矛盾をはらみ、納得できないことが多い後期高齢者医療制度である。 2008.7.19記 今日から 「後期高齢者医療制度」 がスタートした。 2008.4.1記 TV番組「あの歌声を再び 〜テノール歌手べ・チェチョルの挑戦〜」を見て 2007年の年末、番組予告で、「再びベ・チェチョル・・・」の文字が飛び込んできた。 是非見たい、見逃したくないプログラムである。直ぐ録画予約しておいた。 昨夜のことである。 それでも、放送開始の時間になったら、じっとしておれなくなりTVの前に座った。 番組は 甲状腺がんに冒され、手術で歌声を失った韓国出身のテノール歌手「ベー・チェチョル」。声帯の機能を回復する手術を受け、再び舞台に立つために、懸命なリハビリを続ける姿を描いている。 その彼を2年間にわたって追い続けたドキュメンタリーである。 「べ・チェチョル」彼は韓国出身のオペラ歌手である。 彼のことは、昨年、朝のニュースの時間で偶然知った。オペラ歌手が癌で声を失ったという痛ましいニュースであった。 術前の歌声が流れた。オペラ「ツーランドット」のアリア『誰も寝てはならぬ』。身震いしそうな音質と豊かな声量に涙腺が緩んだ。 日本で声帯機能を回復する手術を受け、ドイツの自宅へ帰国するところであった。 あれから声が出るようになったのだろうか、そして歌は?と案じていた。 番組の予告は、待ち望んでいたその後の彼を知る好機到来、見逃してはならぬと逸った。 1時間50分の番組、TVに釘付けになって動けなかった。 「アジアで100年に1人の逸材」と言われた韓国人テノール歌手、ベー・チェチョル。その輝かしい歌声は今はない。 2005年、甲状腺がんに冒され、命はとりとめたものの、その手術の過程で声帯を動かす神経、喉の筋肉が切断された。歌手にとって命と同様の「声」を失ったのである。 絶望と苦悩の日々を過ごす。「もう一度、人々に歌を届けたい」。その一念で、歌声を取り戻す闘いを始めた。昨年日本で音声外科手術の世界的権威である京大医学部・一色信彦名誉教授による手術を受け、奇跡的に「声」を取り戻すことが出来た。 日常会話は問題ない。歌の練習を始めるが高音が出ない、息が続かない。 甲状腺癌を摘出する手術を受けた際、声帯をコントロールする神経だけでなく、右側の横隔膜を動かす神経も切断されていた。 歌手にとって、呼吸を司る横隔膜は、エンジンそのもの。その半分がコントロール不能になってしまったも同然。一難去ってまた一難。 だが、壮絶な戦いと歌声を取り戻す執念、自分に課せられた試練であるという。舞台復帰を遂げる日、その日を信じて、過酷な治療やリハビリに励む。 彼の周囲には素晴らしい日本の音楽プロデューサー、支援する人々がいる。 再起の力になればと、日本で「復帰コンサート」(11月25日)を開いてくれることになったのである。 一瞬迷ったが、「これまで応援してくれた人たちに、自分の今の回復振りをお見せするのが僕の責任だね」と決心した。 舞台は2003年日本でオペラデビューした『イル・トロバトーレ』と同じ劇場「オーチャードホール」。この日の演目も『イル・トロバトーレ』の公演後である。いろいろな想いが過ぎったであろう。 広い劇場に、賛美歌が、深く、静かに、厳かに響く。私は身じろぎ一つ出来ない。歌い終えた彼の目は潤んでいた。 再起を目指すベ・チェチョル、プロデューサー、支援する人々が一体となった「復帰コンサート」、目に涙が光っている。映像をみている私も同様に・・・ 今回まだ38歳であることも知った。 彼の挑戦は続く。 舞台へ立てる日は必ず来ると信じる。 これからも見守りたい。 心を突き動かされた素晴らしいプログラムであった!! 2007.12.30記 「トリノオリンピック」後、一躍知られるようになった曲に、プッティーニ作曲・オペラ「ツーランドット」のアリア『誰も寝てはならぬ』がある。大好きなアリアの一つである。 この曲で荒川静香が氷上で舞ってゴールドメダリストになったことは有名である。また開会式では三大テノールの一人、先日(9月6日)亡くなったイタリア出身の「ルティアーノ・パバロティ」も歌った。 オリンピック後だったろうか、この曲を何人かの人が歌うTV番組を視聴した。 パバロッティ、ジョン・健・ヌッツオ、ラッセル・ワトソン、福井敬・・・。 その中に一人だけ女性の声があった。本来男性が歌う曲では?と少し違和感を持った憶えがある。 歌い手は「本田美奈子」である。彼女については、かってアイドル歌手であったことぐらいしか知らず、たいして関心もなかった。歌っている曲も知らない。 その曲を聴いてからいくらも経っていなかった。 白血病に冒され治療の甲斐なく若くして亡くなった。娘と変わらぬ年齢に胸が痛んだ。 パバロッティがなくなって、またこの曲がクローズアップされた。 女性で歌っている彼女を想った。そしてクラシカルソングを収めた一枚のCDを求めた。 短い彼女の一生を知ることになる。 目まぐるしく変わる音楽の世界で、彼女はアイドル、ロック・シンガー、ポップス・シンガー、ミュージカルのシンガー&アクトレス、さらにはクラシカル・シンガー・・・と独自の世界を創り上げた。 亡くなった年は、デビュー20周年という大きな節目の年であった。20周年記念コンサート準備を進めている最中に、急性骨髄性白血病の宣告、治療・闘病、永眠(2005年11月・38歳)とは、なんとも痛ましい。 常に新しいジャンルに挑戦し独自の世界を切り開いている。 最後に到達したのがソプラノヴォイスによる歌の世界である。クラシックの曲に全編日本語の詩を編みこみ、新しいクラシックの世界を切り拓いた。彼女自身も作詞している。 最初の一曲、目を閉じて聴いた。誰もが知っている「私のお父さん」 TVでの映像は細いきゃしゃな体型に見えた。あの細い体のどこから、これでもか、これでもかと息を伸ばし続ける声が生まれるのだろう? 途切れてしまいそうな、繊細な声の中にも歌詞は明瞭である。 CDには彼女の思いが一曲、一曲に歌い込められている。スーッと吸い込まれてしまいそうな透明感のある声質で、魂が震えるような声の響きである。癒しの歌声である。 新しい歌の世界と出会い、自らの居場所を見つけ、これからもっともっと歌いたかっただろうに、そんな矢先・・・・白血病は若い命を無惨に奪った。 病床でどんな思いで回復を願って治療に専念したのか、悔しい胸のうちを思うと堪らない。 このCDは、彼女自身への鎮魂歌に思えてならない。 収められている曲は・・・私のお父さん、アヴェマリア、アメイジング・グレイス、誰も寝てはならぬ他10曲である。 2007.9.19記 「石踊達哉展」を鑑賞して 年末に、鹿児島市立美術館前を通過する時、「石踊達哉展」開催のポスターは視界に入っていた。 2007.1.9記 母の見舞い 梅雨前線の南下で、南九州は記録的な集中豪雨に見舞われた。鹿児島県北部の出水、さつま、川内地方は未曾有の災害を被った。県は災害地に災害救助法を適用すると報じている。 今日は6日ぶりに晴れ間も見えた。TVで被災地の後片付けをする人たちの映像が映っている。 映像を見ていると、13年前の鹿児島の8・6水害を思い出し、水害にあった母のことがだぶる。 当時母は独り暮らしをしていた。水害にあって、住み慣れた鹿児島の我が家から転居を余儀なくされた。 それまでは、子どもたちが独立してからというもの、鹿児島で独り暮らしをしていた。13年前、鹿児島の8・6水害に遭い、家が1メートル以上浸水した。それを期に長崎へ移り住んでいた。 その母が、4月に右足を骨折したと連絡があった。廊下で足を滑らしただけであったが・・・ 年取ると女性の骨は脆くなる。本人も周りも日頃から注意していたのに、一番恐れていた大腿骨の骨折である。残念である。 母は、長崎県の諫早に妹一家と暮らすようになって13年になる。 少しの持病を抱えていたが、大きな病をすることもなく、元気で穏やかな生活をおくっていた。 悪いことは重なるものである。即手術と思った。ところが1年前に肺に影が見つかっていた。緩やかな進行であったが、全身麻酔の手術となると肺への負担が大きい。すぐにふみきれなかった。病院も手術には消極的であった。 家族で話し合った結果、リスクの大きい手術は避けようと決めた。自力での歩行は難しくなるだろうが、自然治癒に望みをかけようと思った。 骨折してから1ヶ月間はベッドで仰臥状態であった。 術中の急変も想定されたので致し方ないことであった骨折さえなければ、家でごく普通の生活が出来ていたであろうに・・・ 5月に一度見舞ったが、今回は東京在住の次女と一緒である。 今の母は一番話し相手を求めているように感じる。 身辺の介護は病院がやってくれる。だが、自由に動けない体では1日が長く退屈である。 次女にもさかんに話しかけている。昔話になって、私には都合の悪いことまで喋っている。 「こんなお母さんだけどよろしくね」 歌好きでコーラスやカラオケを好んでいた。音楽好きであったのにラジオも聴きたがらない。一番の気懸かりは気力の萎えである。 老いることは避けられない。それは体力が衰え、生活機能の低下することである。それに病気が伴ってくる。今まで、日常生活は人の手を借りずに過ごしてきている。突然不自由を強いられることになり苛立ちもあろう。だが、怒ったり不満を洩らすこともしない。 “Y子(妹)が近くにいてくれたから、よかった、よかった”と何度も言う。妹一家と同居していることに感謝し、頼りにしている。 同居している妹は毎日病院へ来てくれる。一番大変な立場である。 “同居しているので一度はあることと覚悟していた。昨年末っ子が遊学して、子どもが手を離れたので毎日の病院通いも出来る”と言ってくれる。ありがたい事と妹夫婦に感謝している。 福岡の弟は毎週のように来院して話し相手になっている。 姉の私が一番離れている。今回は次女も一緒で喜んでくれた。 2006.7.24記
何でもランキング流行りである。 日経新聞に毎週掲載されている。 先週は『一度は見てみたい名画』であった。 名画と書かれると、映画と紛らわしいが、名作絵画のことである。 その順位は 1.レオナルド・ダヴィンチ 「モナリザ」 2.ゴッホ 「ひまわり」 3.ムンク 「叫び」 4.レオナルド・ダヴィンチ 「最後の晩餐」 5.ピカソ 「ゲルニカ」 6.ミレー 「落穂ひろい」 7.ミケランジェロ 「最後の審判」 8.モネ. 「睡蓮」 9.ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」 9.フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」 読者モニターによるインターネットの調査結果であると書いてある。 日本画家の作品は洋画・日本画いずれの1点も入っていない。お気に入りの画がないのか関心が薄いのか分からない。 日本画は教科書などに載る機会が少なく、作品名が知られていないのではないだろうか。 ランキングの中の7点を見ている。その印象についてひと言書きします。 ●「モナリザ」 ルーヴル美術館ではなく、30年前上野の西洋美術館で見ている。 在京の頃で西洋美術館周辺は長蛇の列であった。幼稚園の子供を伴って行ったが、会場入口にたどり着く頃には疲れてしまった。実物のなぞのほほ笑みに対面して、神秘性を秘めた絵であると感じた。 ●「ひまわり」(ロンドン・ナショナルギャラリー) 10数点あるらしいが、私が見たのはロンドンのナショナルギャラリーである。鮮烈な色彩で迫力がある。プロヴァンス(南仏)の明るい陽光を感じる絵である。 ●「最後の晩餐」(ミラノ) 10年前(1996)イタリア旅行した時である。サンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会修道院で対面した。聖書の有名な場面が描かれており、キリストやユダの位置が確認できた。フレスコ画の壁画であるため傷みがひどく、修復作業をしていた。全容は見られなかったが、ミラノでしか見られないので、機会があれば修復後の姿を見てみたい。 ●「ゲルニカ」(マドリッド・国立ソフィア王妃芸術センター) 3年前(2003)のスペイン旅行の時である。 ナチスドイツがスペイン北部の町ゲルニカを爆撃したことへの怒りから描いた反戦メッセージといわれる。抽象画は意図するところを知らない(事前予習)と解りにくい。 街の雑踏は治安が悪いと言われる中、2人の娘と寸暇を惜しんで夕方出かけていった。 ●「落穂ひろい」(東京) パリのオルセー美術館では貸し出し中で見られなかった。2年前渋谷で開催されたミレー展で「落穂ひろい」、「晩鐘]の2点を見た。原画は想像していた大きさより小さい画であった。 ●「最後の審判」(ローマ・ヴァチカン美術館) ヴァチカン美術館内にあるシスティーナ礼拝堂に在る。 ●「睡蓮」(パリ・オランジュリー美術館) 1999年オランジュリー美術館を訪ねた。有名な「睡蓮の部屋」に入った。 壁画のように大きな8枚を見た時はスケールの大きさに圧倒されそうであった。現在は改装中という。小さいサイズの睡蓮の作品は西洋美術館など他いくつもあるというが、オランジュリーを見てからはその比ではない。日本庭園も描かれている。癒される画である。 ランキングの中でわたしの「一度は見てみたい名画」は2点ある9位の1枚、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」である。「青いターバンの少女」とも呼ばれ、大好きな色青が使われている。ミステリアスな少女の眼差しが気になる。実物を見てみたい。オランダは訪ねていない。行く機会があるときはハーグのマウリッツ・ハウス美術館を記憶しておこう。 宮廷画家・ヴェラスケスの「ラス・メニーナ(女官たち)」プラド美術館も好きである。 絵の背景にある物語を知っていると鑑賞する時もわかりやすい。先入観が先立つこともあるが、程ほどの予備知識はあったほうが楽しめるのでは? 画家は自分の画の中に自画像を潜ませていることもある。面白い。この画の中にもヴェラスケス自身が居る。 3月からまたプラド美術館展(東京・大阪)があるらしい。今回の展示品の中にはないのだろうか。確かめもしたいので美術展にあわせて上京したいと思っている。 有名な作品を有する美術館はギャラリーも多くゆっくり鑑賞する時間がない。人の流れに急かされて、人垣の中から垣間見るようなことにもなる。 ツアーで行く駆け走しり旅行でなく、数日滞在して時間をかけてゆとりのある絵の鑑賞をしたいものである。 2006.2.1記 流行語に登場するほどブログばやりである。 デンプレートもたくさん用意されている。気楽に日記を書くような簡便さがが受けているのであろう。 ささやかなホームページを開いて2年になる。 おもえば、些細なことがきっかけであった。5年前のことである。還暦過ぎたど素人のおばさんがITの仲間入りでもあるまいに、パソコンを始めたのである。離れて住む子供たちとメール交換したいという狙いもあった。 1日講習を受けてみたら、今まで知らなかった世界に興味を持った。トリックを仕掛けられたようで(錯覚かも?)、始めてみたいと思った。なかなか、相手は手強そうである。意を決したらやるっしっきゃない。自信は無し、手強いものを相手にまわすような不安ももった。 始めるからにはきちんと習いたい。若者に雑じってやる勇気はない。若者とは進捗状況も違うだろうし、出来なければ恥ずかしい。それに年は食っていても負けたようで口惜しいではないか。 やる気になっているそんな時、シニアを導いてくれるよい師に出会った。 PCを始めて1年経ったころ簡単なHP作成をしましょうということになった。HPが何かもよく解らないまま、言われるままに手がけたことに始まっている。娘たちとのロンドン旅行をメモ書きした程度の内容であった。公開だけして2年ぐらい放ってあった。 その間HPの仕組みや構成を学んだ。少しずつ理解できるようになっていった。好きな旅行を重ね、デジカメも扱えるようになった。少し理屈がわかったところで、以前のHPを基に自分で触って、手直ししてみようという気になっていた。2年前のことである。 HPもどきを立ち上げたら更新もしなければならない。いやでも書かなきゃならない。 人間暦65年以上であっても薄ぼんやりと過ごしてきている。書き溜めたものもない。かといって書きたいテーマや材料があるわけじゃない。いつも同時進行の話題だけである。いま(現在)を書く外ない。 元来がミーハーな性格、筆力の乏しさに四苦八苦しながら、掴まるところもなく流されっ放しである。私の本流はどこにあるのだろう。いつになったら辿り着けるのだろうか・・・ PCは解らないことだらけである。 昨年は流行のブログに挑戦して一人で出来た時は嬉しかった。(やったね!)そのブログとHPとリンクした。 知力や手足の衰えをカバーし、ささやかな自分史になればと願っている。それを励みにしながらマイペースを続けるしかない。 このページのトップへ 「2005年」、今年ほど健康のことを意識した年はない。 60代も半ばを過ぎて、時として否応なしに身体の老化を自覚させられる。 ある意味で激動の年でもあり、身辺の動きにも変化の多い年であった。 入院中にいろいろな病気や病状についての情報も知った。軽症の人、癌性の人、十人十色である。入院が長引くと、同室の人のみならず、洗面所などで顔馴染みになって言葉を交わすようになる。病人同士相通じるものがあるのか気安く胸の内を語る人もいた。 もう一つおまけまで付いた。 10月末、庭弄りをしていた夫が突然左耳が聞こえないと言う。飛行機に乗ったとき経験するキンキンとした金属音がしていて戻らないと。土曜日である。翌日曜日も同様で変わりない。 発症時から2週間以内に治療することが不可欠。早いほど回復への期待と効果に繋がる。 原因として考えられることは 1.ビールス 2.腫瘍 3.ストレス 4.原因不明 血液検査、MRIの検査では異常はなく1、2は問題なかった。 治療計画に沿って治療を受けていった。すると聴力検査でよい兆候が出てきた。聴力指数が上がっていった。7〜8割の回復で退院許可が出て、あとは通院治療に切り替わった。 予定通りの入院期間で終わり、退院できることは、ありがたく嬉しいことである。夫も私も、入院当初はどんな経過を辿っていくのか見当もつかず不安であった。 これで第一関門を通過した。踊るような気分になって共に喜び合った。明るい兆しが見えてきた。10日間の入院ですんで仕事へもすぐ戻ることが出来た。支障ないようで、好きなゴルフにも出かけている。ほぼ元通りに戻ったようで安堵している。大事に至らずによかった。思いがけないことが、思ってもみない時にやってくるものである。余り歓迎したくない来客である。 これでお終いと思っていたら12月4日に訃報が入った。 元鹿児島県知事逝去の知らせである。鹿児島に帰省中に心臓病で倒れて療養・回復し、帰京して10数日しか経っていなかった。 偶然とはいえ夫が10日間入院した病院と同じ病院であった。エレベーター前で夫人とばったり会って入院を知るところとなり、どちらもびっくりしてしまった。お互いにその後の経過もよく退院待ちであった。退院される時病院の玄関でお見送りした。顔色もよく差し出された手は温もりがあった。あの時が、目にした最後の姿になってしまった。 後日夫人の電話で急逝であったことを知る。帰京後自宅での日常生活に戻っていた。その日は家族全員が揃って夕食した後であったらしい。気分が悪くなり救急車で搬送中の急変で帰らぬ人となった。 20数年前、夫は県の秘書課長として4年間仕えた。公私を共にする時間も多かった。夫にとっては恩人にも等しい存在の人であった。ぽっかり穴の空いたような虚無感がするという。 今年も、あと数日で暮れようとしている。 悲しい出来事が多く心休まる時のない一年であった。 行く年来る年、悲喜こもごも、年の変わり目に立って、いろいろな想いがよぎる。 健やかな自分の未来でありたい、そうであることを信じて新たな年を迎えたい!! 2005.12.28記 高額療養費制度 7年前のことである。 高額療養費制度とは 入院していると、諸々の病気に関することが伝わってくる。 自分の病気が申請の対象になるのか半信半疑でいた。知らぬこととはいえ収入も関わりがあるのではと思っていた。 退院時に支払いに行くと「高額ですね、今回は間に合いませんが、立替制度(無利子の貸付制度)もあるのですよ(事前手続き)。高額療養費は手続きをすると1〜2ヵ月後には出ますよ」と高額療養費制度について説明を聞いた。 この制度は自己申請が原則である。 今年5月の入院 (ペースメーカーをインプラントした)の場合、通算40日間であった。退院後高額療養費の申請をした。 ところが病院の請求書は1ヶ月単位で届く。 入院費など医療費の額は、「70歳以上」か「70歳未満」で負担額に大きな違いがある。 私の場合ペースメーカーをインプラントした時、身障者1級手帳が交付された。1級だと65歳から老人保険の適用になる。65歳になったばかりである。世帯主の収入から2割負担になった。 今回の入院費でその違いを実感した。 今回の入院期間も5月の時と同じ40日間で手術(胆嚢切除と胆管・膵管分離)も受けている。 日経新聞にも載っている。 高額療養費制度については知らないと損することが多い。 一般医療費に占める高額療養費の割合は7.2%、実際に還付された高額療養費の占める割合は1.7%にすぎない(2002年度) 利用が進まない背景には、制度が複雑である。自己申請が原則である。 健康体でいたいと願っても加齢による健康への不安は付きまとう。 2005.10.23記 術後1ヶ月余りというのに野次馬根性旺盛、ミーハーな性格は抑えがたく、その気になって外出となった。公開前から話題になっていたペ・ヨンジュン主演の映画「四月の雪」を観るためである。クランクインする前、映画のタイトルは「外出」ともいわれていた。 ペ・ヨンジュンという俳優を初めて知ったのは昨年見たTVドラマ「冬のソナタ」である。それまで韓国ドラマは見たこともなかったのに一気に嵌ってしまった。その火付け役は神戸に住む従姉である。TVドラマは数本見ているが、今回初めて彼の映画を観る。 昼間の上映でもあり観客の大半は中高年の女性ばかりで約6〜7分入り。1人だけ男性が入ってきた。 ストーリーは主人公の夫が、妻が不倫旅行中に事故に遭って、その不倫相手の妻と関係を持ってしまうという話である。この主人公をペ・ヨンジュンが演じている。 どんなに舞い降りても積もることのない4月の雪、儚い・切ない恋、映像はきれいに撮られている。 カメラは視覚で捉えるが、台詞の少ない映画で、その分役者が演技・表現する必要があるのだろう。これまで韓国ドラマは台詞が素晴らしいと思っていたが、この作品はその印象が薄い。見る側も感情移入しにくい。 ヨン様には柔らかい感じの青年のイメージを持っていたが、ラブシーンではセクシィーで成熟した男性を感じた。 映画はストーリー、脚本、演出ともに消化不良でちょっと期待はずれ、韓国では興行的には捗捗しくないようである。 2005.10.10記このページのトップへ それは突然の訃報であった。 入院中の私は日曜の朝(8月21日)自宅に電話した。 俄かには信じられなかった。I夫人が入院中であることは承知していた。6月末に一度お見舞いに行っている。十二指腸の手術をして、絶食が続き前日から術後食が始まったばかりの時であった。食事が出来るようになると術後の回復も急ピッチで加速するだろうと思った。この日は気分もよいということで、血色もよく普段と変わらない会話が出来て一安心して病室を後にした。 退院される前にもう一度お見舞いに行こうと思っていたら、自分が又入院して結局願いは叶わなかった。悔いだけが残る。 入院中で鼻から管が通っている状況では外出も出来ない。最後のお別れがしたいのに通夜、葬儀のどちらにも行けないわが身の不甲斐無さが恨めしい。病室で独りベッドにいると、これまでのことが走馬灯のように駆け巡る。忽然と私の視界から消え、二度と声を聞くことも出来なくなった。この悔しさをどこにもぶつけようがない。 知り合って20数年になる。 ここ10数年は、毎年恒例になっている筍堀りと梅ちぎりに出かけて行く先の主でもあった。飾らない気さくな人柄で、数人の仲間もこれだけは休みたくないと毎年楽しみにして待っていた。私は5月にも入院しており、今年は参加できず残念なおもいをしていた。入院中何度も病室に来てくださり、ゴールデンウイーク後にご主人とイタリア旅行に出かける予定とうれしそうに話された。楽しんできてくださいと伝えた。その旅行中に体調が悪くなったらしい。戻って入院、病状の進行からして悪性の病気であった。癌は残酷である。どうして彼女を見逃してくれなかったの! いろいろな思い出がある。目を閉じると、一緒に東欧旅行した5年前の秋のことが鮮やかに蘇って来る。1週間の旅程の中で細かい話もできて更に親近感を覚えた。秘めた知性・才能を面に出すことなく、その爽やかな人となりは脳裡に深く刻まれている。 この時は妹さんの形見という着込んだ跡がある皮のジャケット着用であった。姉妹2人でフランス旅行を語り合っていたのに実現しなかったと。今思うと、旅先は違ったが、妹さんも一緒の旅行ではなかったかという気がしてならない。折に触れ形見の服をよく愛用されていた。 ドイツ語圏のオーストリアでは大学での第2外国語はドイツ語だったのと少し披露してくださった。 少し低いトーンで「Iです」電話の声が耳元に聞こえる。又架かって来そうな気がしてならない。 かけがえのない人を失った。喪失感が大きい。痛恨の極みである。 5ヶ月ぶりの出席である。 恥ずかしくて大きな声で言えないがABCの練習をしている。劣等生である。旅行に出かけたり、とんでもない病気をしたり、さぼってばかりで当然のことである。月3回であるにも拘らず、よい時で出席率1/2でかなり高い月謝についている。それでも辞めないのは、同世代・少数のメンバーで雰囲気が好きだから。済んでからのお茶飲みも楽しい。 そもそものきっかけは 初めた頃のもどかしさといったら・・・情けなさが先立った。 学校を卒業して40数年、机上に向かうこともなく、主婦業にどっぷり浸かって怠惰な日々を過ごしてきた付けの代償は大きい。錆び付いた脳は容易に始動しない。 こうなったら一から始めるしかない。英語を習い始めた中学1年に戻ってみよう。書店で中学1・2・3年の基礎英語を覗いてみた。並行してラジオの基礎英語を聴いた。テープをセットすることの方が多かった。テキストは大いに役立った。 以前近くに中学生(米)の女の子が住んでいた。教室のテキストを見せたら幼稚園レベルと聞いて笑ってしまった。これが現実、私の現状と悟った。 学生時代、英語は嫌いな科目ではなかった。むしろ好きであった。だが、グランマー、リィディング中心で会話は全然なかった。英語は高校入試の科目になかった時代である。隔世の感がある。 もう少し若ければ1ヶ月ぐらいホームスティしてみたい願望を持っていた。心に決めると直ぐ動き出すほうである。独り胸に温めてもいたが、世の中儘ならぬものである。 大病をして、年とともに健康面でもパーフェクトと言えない状況になってきた。どうやら竜頭蛇尾に終わりそうである。諦めともぼやきともつかぬ、自嘲気味になっている。 歩みは遅くとも、ボケ防止(今は認知症防止?)の一端になればと気負わずに続けるしかない。 夢でもいい。着実な実りがあってせめて夢の中にフイードバックされることを期待したい。 2005.8.5記
手帳分限者になった。 現在はカード社会である。半面、機密情報流出、不正使用のニュースが後を絶たない。健康保険証もカードになっている。携行し易いように感じるが、小型になった分、紛失の可能性も大きくなったように思う。 5月末にペースメーカーのインプラント(植え込み)術を受けた。 この術を受けた人は身体障害者手帳を交付されることを知った。 窓口で担当者から説明を受けた。 交通機関の優待も多い。 管理しなければならない手帳やカードが増えた。 女性はハンドバッグを取り替えて持つことが多い。その度に必要品の出し入れをするのは煩わしい。しかしこれからは面倒くさいとばかり言っておられない。 ペースメーカー手帳は、病院で発行されたが、万国共通で、海外でもそのまま提示すればよい。ペースメーカーインプラント者であることを、英語は言うまでもなく、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、中国、韓国語も表示してある。そしてぺースメーカーに設定された数字が記入してある。これからは、海外旅行好きの私にとっては命綱になるものである。しっかり管理することを肝に銘じなければならない。 確かにペースメーカーはインプラントしたが、外見は、一見して身障者に見えない。 心臓の手術もいろいろである。心筋梗塞などの手術を受けた人はその後もカテーテル検査など辛そうである。私は投薬なし、退院後も、1年に1回の通院でいい。ペースメーカーの電池は約10年ぐらいもつらしい。退院後1ヶ月たったが日常生活にあまり違和感がない。 最大のリスクはMRIが撮れなくなったことである。だが、今まで大病をしている割には、これまでMRIを摂った経験はなかった。これからも多分ないだろうと楽観している。 ペースメーカー手帳、身体障害者手帳、健康保険証2種類は、私にとって健康管理と直結する欠かせない手帳である。何はさておき、これらの管理と携行には気を抜けないことになった。 2005.7.5記 3月に私を襲った魔物はポーズだけではなかった。 ほんまもんの魔物が潜んでいた。そして触手を伸ばしてきた。 財布一つ握っただけの二度目の緊急入院となった。またもや綱渡りの命拾いである。今回は救急車のご厄介にもなった。 4月25日の朝、毎年恒例の筍堀りにいつものメンバー6人で出かけた。鹿児島市南部の喜入町の友人宅の山である。 作業着に着替えて山へ向かった。緩やかな傾斜だが笹の葉が多く滑り易そうな山肌をしている。 気がついたときは周囲に友人たちが立っており様子がおかしい。救急車を呼んだという。どうやら私の為であるらしい、倒れて1〜2分返事がなかったのよ! 聞いた私の方がびっくり仰天。 救急隊員の「意識清明!」と連絡する声がする。7年前に頭部手術をしたこと、普段脈が遅いことなどを伝える。 若い脳外科医に付き添われ市立病院へ転送される。車中で山で倒れた時のことを聞き取り書きしながらであった。カーテンの隙間からどの辺りを走っているか見当がつく。気分は悪くない。スピードを出しているのだろうが救急車の振動はかなりのものである。 救急処置室で循環器ドクターの処置を受ける。採血する。エコー、心電図のモニター画面が見える。 「脈が40ぐらいで意識不明になることはない。今回はおそらく20台ぐらいまで下がったのでしょう。心電図をずっとチェックする必要があるので入院です。それでペースメーカーを入れるかどうか決めましょう。」 カテーテル検査が済んで 「血管はきれいですよ」 「あぁ、よかった」 心電図モニターを付け病室へ運ばれる。6F4人部屋。 できるだけ水分を取るように、抗生剤と造影剤を速く排出する点滴が始まる。 カテーテル検査後は一晩右手は固定したまま絶対安静である。 夕食から食事が出た。昼食抜きで空腹だった。右手はふさがっているので食べ易いようにおにぎりにしてあり、その心配りがうれしい。 着の身着のままでの緊急入院である。急ぐべき連絡事項、必要品のリストを夫に伝える。 今度もまた寿命が10年縮んだおもいがするという。我ながら申し訳ないと思う。
病名は房室完全ブロック。 緊張したわけではないが、一旦決まった術日の前日に発熱して延期になり結局40日間の長い入院生活となった。 ペースメーカーのインプラント手術は局所麻酔で約2時間、目隠しはされているものの意識があるので周りの話し声すべて聞こえる中で行われた。 無事終わって 執刀医に“来年は筍を何本も掘ってください”と言われ 安堵したと同時にうれしくもあり可笑しくもあった。 その後の詳しいエコー検査の結果心不全の心配はないことが分かった。術後は経過がよく、術後10日目の6月3日に退院した。 元気な心臓を取り戻し、新たな未来が始まるような、心身共に再生したような厳粛な気持ちになっている。加齢により体が悲鳴をあげていることを自覚し、自らを戒め、この感覚を持続しなければならない。 40日ぶりに見る庭の花色、光と風は夏の装いである。 2005.6.9記
鼻かぜに悩まされ珍しく1ヶ月外出しなかった。今までにない不快な症状で苦しんだ。 もうこれ以上年は重ねたくないが、弥生3月は誕生日の月であり目出度いはずであった。 スケジュールも混んでいた。6〜7日、長崎に住む母を見舞った。 昨夏体調を崩し1ヶ月入院した。長崎で暮らすようになって初めてのことである。病気が見つかって心配したが食も進み顔色もよい。小康状態である。 2年前の息子の結婚式には妹たちが同道して東京まで来てもらった。 19〜21日は甥の結婚式で大阪神戸へ出かけた。 昼過ぎ従姉と別れ、新神戸で新幹線に乗り帰路についた。ここからが大変であった。魔物が待っていた。 夕食も摂らずすぐ休んだ。翌日内科で診てもらい数日休んでいてもはかばかしくない。鼻のとおりが悪いせいか頭の鈍重感があり気分まで悪い。食べ物の匂いも味もしなくなり、食べる気も失せた。今までにない風邪の症状である。花粉症を疑ったりして耳鼻科で診てもらった。蓄膿かもしれないとレントゲンを撮ったがどちらの心配もなかった。左が腫れているので炎症があるのだろうと抗生物質が出た。それでもなかなか軽快にならない。 嗅覚、味覚がなくなると料理つくりにも支障がでる。カレーライスを作った。香辛料として強烈なにおいのするカレー粉の香りが判らない。匂い、味がしないと料理の味付けを自分で確かめられない。作り手として情けない話である。手探りで作った。 匂い味が判らないと美味しさを感じなくなり食欲は消え失せた。砂を噛むおもいである。無理して食べたものは、素うどん、バナナ、りんご、カステラ、ヨーグルト等でそれも日頃のイメージで口に押し込んでいた。 普段五感を意識することなく過ごしている。その一つが機能しなくなると支障があるばかりでなく怠惰になり意欲も削がれることを痛感した。 きっと体の中に変化が起こっているに違いない、どこか壊れてしまったのではと思った。 魔物はどこから触手を伸ばしてくるか分からない。健康のありがたさを再認識した3月であった。 2005.4.24記 国際化、国際交流といわれるようになって久しい。 鹿児島は日本の南の玄関口といわれている。中央からは離れており確かに地の利は悪い。 その鹿児島に初めて国際線の直行便が就航した。 香港の「ドラゴン航空」で1987年(S62)のことである。 あの時の興奮と感激は忘れられない。女性10数人のグループ旅行であったが初めて目にする外国・香港は西洋(当時イギリスの植民地)と中国が混在しているところであった。 着陸態勢に入り林立する高層ビルが視界の中に広がった。 この旅行の感動、経験が、私に海外旅行熱を煽るきっかけとなったのである。そのドラゴン航空の香港便も中止になった。香港へは福岡からの経由便(JAL)で行っていたがこれも廃止になった。今は福岡まで行かねばならなくなった。 原因として利用者の層が薄い、企業が少なく業務客の継続性がない、個人利用のリピーターは少ない等考えられる。 現在鹿児島からの国際線は「大韓航空」の韓国・ソウル便と「中国東方航空」の中国・上海便の2路線だけである。 ソウルは新空港が開港して国際線が増えている。ソウル経由で海外へ行くチャンスは広がった。上海からは他の中国都市へ行き易くなり拠点が出来た。 成田、関空発の国際線は鹿児島からは不便である。成田への直行便はなく関空へも1日2往復(増便になって)しかない。旅行大好き人間にとって海外への窓口になる国際線は関心があり、目が向く。 最近名古屋に中部国際空港「セントレア」が完成した。セントレアと聞いただけではどこにあるの?と言いたくなる。それでなくとも昨今の町村合併で、地名を聞いて咄嗟にどこの地域のことか判り辛くなっている。 それでも海外への窓口が広がって浮き浮き気分でいる。一度はセントレアからも飛び立ちたい! 当分海外旅行熱は冷めそうにない。 2005.3.15記
今年も卒業シーズンがやってきた。春は別れと出会いの時でもある。 自分の卒業式でまず思い出すのは小学校である。一番印象に残っているのも小学校である。 昭和20年8月、終戦で疎開先から戻ってみると住まいは戦災に遭い跡形もなかった。わずかに庭の井戸と石倉の石壁が残り、戦前の面影を残すのみであった。鹿児島の市街地は一面焼け野が原が広がっていた。 その終戦の翌年S21年に小学校にあがった。 その後戦地から父も帰還して4年の時草牟田小学校へ転校した。 新憲法も公布され新しい日本が生まれようとしている頃であった。 民主主義の時代になって好きなことが自由に出来るようになった。自由、その中で利己主義について話された。やりたい放題、自分のことしか考えていないことである。自由を利己主義と履き違えないように、そして真の自由とは自分の行動に責任を持つことだと話された。 自由・民主主義という言葉に接し、もう子供じゃない大人の仲間入りするのだという自覚を促され、少し面映いような心もちがした。意識の中に子供から大人の世界へ入っていく心構えのようなものを感じた。無心に耳を傾けた。 校長先生の存在は、当時の私の目線から見て、偉い存在であり距離もあり威厳に満ちていた。襟を正してじっと聞き入っていた。 当時自由と聞いてまず「言論の自由」を思った。戦前の言論統制を知っていたわけではないが、言いたいことを自由に言える世の中になったと子供心にも感じていた。 あれから50年、世の中も大きく変わり、大きなうねりの中で価値観も変化した。 何事もあまりに自由になりすぎて、利己主義が横行しているように思われてならない。逆に不自由を知らなくなっているのではないだろうか。失ったものはないだろうか。 10代、20代の若者にフリーターなるものまで登場して自由を謳歌しているようにみえる。定職を持たない彼らに働く意思があるのだろうか。 自由とは人間の生き方の本質に関わる問題である。生き様を問われているのである。 当時校長先生は今の世相を予兆、予見されていただろうか。 2005.3.5記 4〜5年前息子が引っ越したマンションの名が「テラスマグノリア」であった。「マグノリア」って何だろう。どんな意味があるのだろうと思っていた。 1〜2度行ったが、息子に聞いても「何かあるらしいけれども」と言うだけで、私もそれ以上確かめることもしないままであった。住まいは世田谷区経堂で荷物送りの宛先を書くときちょっと気になる程度であった。 今朝のことだった。高校同期のホームページに辛夷(こぶし)の写真が載せられていた。昨年4月に九州自動車道・大分自動車道の車窓から多くの辛夷の木を見た。細い花びらが全開している様は車のスピードに流されて白い蝶が舞っているように見えた。 今日は何とはなしに辛夷を確認したい気分になった。ネットの『季節の花』を調べてみた。花の写真を見て、学名に気付いた途端息を呑んだ。 Magnolia kobusと書いてあるではないか。 Magnolia:モクレン属、kobus:コブシ(日本名)とある。 Magnolia(マグノリア)は18世紀のフランス・モンペリエの植物学教授「Magnolさん」の名前に因んでいるという。モクレン属(マグノリア)に属するものには白木蓮、木蓮、泰山木などがある。 謎が解けた! 今までのあやふや感、もやもや感がすぅ〜と消えていくようであった。 マンションの名づけはモクレン属(マグノリア)の「辛夷」に由来しているに違いない。近くの土地持ちの地主が建てたと聞いていた。そこに辛夷の木があったのだろうか、地主の好きな木だろうか、否他に特別の思い入れがあったのでは?と勝手な想像をめぐらしてみた。 辛夷にかかわりがあることは確かであろう。辛夷の開花期は3〜4月である。この時期は農作業を始めるタイミングでもあるらしく、辛夷の花は農作業始めの目安になっていたのではなかろうか。昔の農地跡だったことと照らしても合点がいく。 息子は2年前結婚して移り住み、宛先名を書くことも、行くこともなくなった。 2005.2.21記
私は昭和15年生まれである。歳がバレてしまいますが・・・。 この年は紀元2600年で、名前に「紀」の文字のついている人が結構いる。私の名前にはないが、同年代の人にこの字を見つけると、この人はS15年生まれに違いないと簡単に察しがつく。同級生の中にも何人かいた。 2月11日は「建国記念の日」である。戦前は神武天皇が生まれた日で「紀元節」と呼んでいたらしい。らしいと書くのは、終戦後に小学校へあがっているので戦前の教育については殆ど知らないし記憶もない。「紀」は太平洋戦争の頃を思い出させる一文字でもある。 戦火を免れるため、日置郡・郡山町の花尾に疎開もした。父は戦地へ召集されており昭和23年に復員したが、その間は母の実家で暮らしていた。 戦時中歌われた歌の中に一つだけ憶えているものがある。軍歌または愛国歌に違いない?その一節だけを諳んじている。 〜♪紀元は2600年、あぁー、一億の鐘は鳴る〜。 曲名は「紀元二千六百年」である。 「金鵄(きんし)かがやく、日本の、栄えある光、身に受けて、 正しくは「鐘」でなく一億の「胸は」鳴るである。聞き違いの空覚えのまんまであった。歌詞の意味はわからないままの聞き覚えであった。 似たようなことを、直木賞作家の「故 向田邦子」が書いている。彼女の作品に「眠る盃」がある。土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」は誰もが口ずさむ歌である。その歌詞に「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして」とあるが彼女は「めぐる盃」を「眠る盃」と覚えてしまったと書いている。 客人の多い家で、子供の頃、来客があると、香炉に香をたく役目であった。父の酒気の入った客が帰り、酔いつぶれて座布団を枕に寝ている父の傍らには酒の残った盃がある。彼女の目には酒も盃も眠っているように見えたのだろう。彼女の気持ちの中では「春香炉の 花の宴 眠る盃 かげさして」であったと回想しいる。 現在私には4つの名前がある。 偽名を使っているわけではない。 パソコンを扱うようになって生まれた名前である。 @. 戸籍上の名前 正真正銘の名前である。 メールアドレスを取得する時に姓も名も入れたくなかった。 この小説の舞台であるカナダのプリンス・エドワード島にも行ってみたい。 春が来て、風のにおい、暖かい陽だまり、土の香りが届いてくるようである。 ずっと、セントローレンス湾に浮かぶ夢の島を想い描いてきた。1997年に橋が架かって陸続きになっている。自然、風情、夢が壊れてしまったようでちょっと寂しい気がしている。 このアドレス名ではメールを受信した人がすぐ誰からのものか判別できないかもしれない。然し特定の人宛てにしかメールを送らないし、文末に記名しているので今まで不都合は生じていない。 BとCは高校同期会のHP(ホームページ)へ投稿する時のHN(ハンドルネーム)である。 「マンマ」は自身が母親であり、且つカンツオーネの好きな歌『マンマ』から頂戴した。 「アン」はわたしのメールアドレスのイニシアルと自身のHPのタイトルから採っている。 同じ人間が4つの名前を使い分けている。不思議といえば不思議、当たり前といえば当たり前に思える。役者が役を演じているいるようでもある。今では、好奇心を擽り、変身願望も充たしてくれる、パソコンがもたらした、どの名前もお気に入りとなっている。 2005.2.15記 ルノアールの絵の中から飛び出してきたように色白でふっくらと柔らかい肌をしている可愛い女の子。 3歳になってだんだんお姉ちゃんぽい表情を見せるようになっている。おしゃべり大好きで会話もうまくなり大人と上手に会話のキャッチボールができるようになっている。髪形を変えたり、ちょっとヒールのあるミュールを履いておねえちゃん気取りである。 若いパパとママは他の場所で美容室を持っている。昼間は保育園に通いその後おばあちゃんの美容室へ戻ってくる。おばあちゃんが仕事の場と私生活部分を区別させるように躾けている。話せるようになって仕事場ではおばあちゃんとは言わずF子先生と呼んでいる。はじめの頃は“みこちぇんちぇ”と舌っ足らずで呼んでいた。 2004年12月、友人数人とツアー旅行でドイツへ行った。メルヘンの世界に憧れ、ロマンティックな情景に出会えそうな気がして、ドイツのクリスマスマーケットを見物するためである。飛行機は満席であった。 この旅行に若いカップルが1年5ヶ月の女の子を伴って参加していた。10時間以上の飛行時間の間も愚図らない。旅行中も殆ど泣き声を聞かなかった。母乳で育っており親と一緒で安心しきっている表情である。車中でもお母さんの胸に手を入れてスヤスヤと眠っている。母親の肌に触れ、愛情たっぷりに育っている幸せそうな光景である。 幼児の満面のほほ笑みやあどけない表情を見るとこちらも微笑み返したくなる。顔が緩む。綻(ほころ)ぶ。このツアーの「エンジェル」のような存在であった。 機内で乗り合わせた中にもう一人2〜3歳の女児がいた。2〜3列後部座席だったが泣き通しであった。キャビンアテンダーの人もあやそうと必死であるが幼い彼女には通じない。 狭い機内では親も子も切ない。どうすることも出来ない。周りの乗客も遣る瀬無い。気の毒に思う。 理由(わけ)あって幼子を同道して国際線に搭乗することもあろう、せざるを得ない時もあろう。小さい体には気圧の変化は耳への負担が大きく、十分対順応来ないでいるのではなかろうか。無理がなければいいと人ごとながら心配である。 わが子の幼い頃のことをふと想い出すときがある。 長女が幼稚園に通い始めた年は下に2歳の次女、1歳の長男がいた。 子育てに追われ、毎日決まった日常の家事に明け暮れ、気持ちのゆとりはなかった。当時K町に住んでいた。初めて住む土地で周りに知り合いもなく育児に孤軍奮闘していた。毎朝長女を幼稚園へ送って行かねばならなかった。車もない頃で(今もって運転はしませんが)あった。途中列車の踏切があり危ないのでいつも親子4人で出かけていた。長男を背負い、次女を乳母車に乗せて15分ぐらいの道のりを歩いた。 幼稚園に着くと次女は庭の遊具に夢中になって帰りたがらない。戻れば山のような家事が待っている。・・・が、急ぎたいきもちを抑えてひとしきり遊ばせることにしていた。長女の先生とも仲良くなりK子ちゃんと声かけてもらって可愛がってもらった。 思いっきり存分に遊ばせてやりたいのは山々だが、日常の目先のことに追われ、毎日キリキリ舞いしている。気持ちも時間もゆとりがない。流行り病は次々に連鎖反応する。ゆったりした気持ちで子育てできない一時期であった。 知的な興味も示してくる。文字を覚えたがる頃であった。聞かれる度に答えてやる暇がない。間違って覚えないように百字練習帳を使って筆順の数字をふってやった。 年子3人を育てたようなものである。今更ながら反省しきりである。 次女と長男は鹿児島と東京(転勤により)で幼稚園に通った。鹿児島の先生は年配の人であった。家庭訪問のとき聞いた話である。自分の子育てを通じて幼児教育の重要性を痛感している。自身は大学教授夫人であったが、子育ての反省を踏まえて幼児教育に関わるようになったという。自分の子育てが終わって、ヤレヤレとほっとするでなく、幼児教育に関わりたいという熱意、それを実践している行動力、情熱に感動した。年齢は50歳前後ではなかったろうか。 当時若かった私は洞察力などあろう筈もなく、日々の雑事に追われ未だ深いところまで思い至らなかった。振りかえって、子育てはうまくいかなかったからといって反省はしてもやり直しがきかない。その時々が真剣勝負である。情緒面だけでなく病気もする。悔いの残ることばかりである。 今にして(思えば)幼児教育の重要性を思い知りその通りだと痛感する。昨今の幼いわが子への虐待、尊属殺人、荒廃したニュース、世相には胸が痛む。子育ての原点はまず個々の家庭にある。家庭の躾で始まる家庭教育は幼児教育と連動している。今地域の教育力も薄れている。 あれから30年以上経った。先生は今もお元気でおられるだろうか。 2005.1.25記 ★「冬のソナタ」・・・私もはまった? ご多分にもれず冬のソナタの魔力は大きかった。 それまで何も知らずにいた私が、この夏従姉から送られてきたTVビデオを見て一変してしまった。元来がミーハーなので変わり身も速い。 まず映像と全編に流れる音楽の美しさに魅せられた。ストーリーの純愛物語は、忘れかけていた青春と失いつつある古きよき時代の日本を彷彿とさせてくれた。 1本のドラマがあっという間に団塊世代を中心に中高年の女性の心を虜にしてしまった。ヒロイン気分でドラマに酔いしれ、なだれ現象のように日本女性の心を捉えてしまった。冬ソナ・ツアーまで組まれている。 美しい絵画・美術工芸品の前に立ち、きれいな音色の音楽を聴くと、テレパテシーが伝わるような抑えがたい感動をおぼえることがある。それは自分の知識や精神に大きくプラスされ、充たされ、癒される瞬間である。マイナス面の時もあるかもしれない。異文化とも出会いがなければ自分の意識になんの変化もおこらない。 最近TVで韓国語講座をつとめる講師が語っていた。 「チョン」は日本の情とも似通っている。心は同じであるというニュアンスがある。私とあなたは同じ、そうであれば共有しましょうよ、それは心が通じ合うことに繋がる。 初めて韓国を訪ねた時のガイドさんを思い出した。流暢な日本語を操る若い女性で、聞くと学校へ行って学んだ、両親も親日派ですという。説明もわかりやすく勉強している様が伺えた。話しやすい雰囲気になって緊張感も解れた。 道中度々、彼女が運んでくれる飲み物(キャラメル味がした)で体が温まった。私たちが美味しいと言った(連発)からだろうかその飲み物(パウダー)をお土産にと手渡しで差し出した。帰りの空港では姿が見えなくなるまでいつまでも手を振ってくれた。連れの一人が呼応するようにさっとハンカチを取り出して振った。別れ際に胸が熱くなるような親近感をおぼえた。これも「チョン」になるのだろうか? 今回字幕付きの「冬のソナタ」も見たが、韓国語の響きは耳に優しく聞こえることを知った。特に歌のメロディーから聞こえてくるハングルに魅せられている。ハングルを学ぶ人が増えているという。韓国文化への入り口は偶然出会ったドラマ「冬のソナタ」であった。韓国が身近な国に感じられるようになっている。そして他のドラマも見たくなっている。 これまで知らなかった「恨」(ハン)と「情」(チョン)がどのように表現されているか意識しながら見る楽しみが加わった。 韓流スターと呼ばれている俳優は好感の持てる人が多い。インタビューでもルックスのよさに加え誠実な応答が清々しい。NHKで「好きな女性のタイプは?」「これは報道番組でしょう」とやんわり断わった俳優がいた。 韓国に寄せる関心が、お祭り騒ぎのようなドラマによる一過性のものに終わらず、これを機にお互い理解しあい日韓交流が深まり持続していってほしい。今度は韓国に日流ブームが沸騰しないだろうか? 韓流ブームで、新たに韓国のことを知ったり、もっと知りたいと思うようになっている。私の意識にも変化が生まれている。初訪韓から10数年経た今、もう一度訪ねて自分の目で確かめてみたい。前とは違う視点や角度から理解できそうである。きっと、もっと近くて近い国になるに違いない。 2004.11.14記このページのトップへ ★韓国の料理・食べ物 海外旅行の時は、できるだけ市場やスーパーマーケットへ行って生鮮食品や食材をを見て回るようにしている。 この頃は韓国料理のレストランもあり、いろいろな食材も売られている。韓国料理は日常の食生活の一部となっている。キムチ、焼肉、冷麺、ビビンバなどは普段の献立に登場するほど親しまれ馴染んでいる。 キムチは沢庵を食べるような感覚ですっかり家庭の食卓に浸透している。白菜がおいしくなってくるとキムチも自家製をしたくなってくる。私好みの分量でキムチを作っている。 10年前は初めて食べる本場の韓定料理に期待していた。宮廷料理の名残と聞いたがスープ以外は冷たい料理だった印象がある。記憶も薄れてしまった。機会があればもう一度tryしたい。そういえばチジミも(お好み焼きに似ている)初見えであった。 韓国海苔はこの旅行で初めて食べてみた。小袋に入って朝食に出てきたので日本で普段食べているものと思った。岩のりで歯ごたえがあり、塩味とごま油の香りがして風味よく好みとなった。今では病みつきになってそのまま手でちぎって食べている。日常食となり、韓国土産のおねだりは海苔と決めているほどである。 一番印象に残っている料理は[参鶏湯(サンゲタン、サムゲタン)]である。 慶州で、石鍋で煮込まれた熱々の参鶏湯(サンゲタン)が卓上に出た。鶏1羽が丸のまま鍋に納まっており野趣にとんだ料理と思ったが、額に汗を滲ませながら体が温まった。 雛鳥1羽の腹の中に、もち米、生の朝鮮人参、にんにく、生姜、なつめ、松の実、クコの実などを詰めて糸で閉じてじっくり煮込んである。白濁色のスープには薬効成分もあり健康と美容にもいいという。朝鮮人参、にんにくはそのまま食べられ、薄味でコラーゲンたっぷりのスープは美味しく感じた。夏に食べると冬は風邪をひかないといわれる。 キムチに代表されるように韓国料理ににんにくは欠かせない。ソウルから国内線に乗り換えると機内でもにんにくの香りがして、韓国に来た実感がしたものである。 釜山のチャガルチ市場で、茹でたてホヤホヤの豚のお面を見たときはちょっとびっくりした。近づいていくと見詰められているようであった。 ガイドさんに連れていってもらったレストランの冷麺は格別においしかった。本場で食べる初めての冷麺で好奇心と期待感でソワソワして待った。ラーメンと違いさっぱりしたスープで予想通りの味で充たされた。あの味にはもう一度めぐり会いたいと思う。 食べることに関しては、食いしん坊であると同時に好奇心が先立ち味蕾で味や食材を確かめたくなる。手持ちできる食材は欲しくなってくる。そして性懲りもなく帰りの荷物が膨らむのである。 2004.11.12記
韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」がNHK地上波で放送されたことと無関係ではなさそうである。否、火付け役であった。 ★初めての韓国 韓国を初めて訪れたのは10数年前のことである。 私にとって2度目の海外旅行の国であり、初めて行く土地への好奇心とわくわく感で高揚していた。しかしはしゃぎ過ぎないように気持ちをセーブしている部分もあった。 その頃は、昨今の韓流ブームにみられるような現象は(韓国への関心度の高まり)は想像すらできなかった。 首都のソウル、古都の慶州、南の玄関・港町の釜山を訪ねた。鹿児島からの直行便はない頃で福岡経由であった。 当時のソウルには、植民地時代を象徴する、旧朝鮮総督府の建物が残っており、間もなく取り壊されることが決まっていた。韓国民族村では日本人として胸の痛む展示物もあった。 ハイウエーを走行しながら、非常時には滑走路になると聞いて、朝鮮半島が南北対峙している現状を実感し緊張感が走った。ソウル周辺の郊外は高層アパートが林立しており、さらに建設途上であった。近代化を進めている勢いと活気を肌で感じた。1988年開催のソウルオリンピックで飛躍的な経済成長を遂げている。 街は看板やネオンがハングル文字でなければ日本の街並みと錯覚するようであった。南大門の市場にも行ったが食堂がひしめいている狭い通りは食べ物の入り交じった臭い(強烈)、話し声も聞こえないような喧騒、買い物客でごったがえしていた。生活感溢れる活気のある市場であった。 李王朝最後の皇太子妃・李方子は、日本の旧皇族・梨本宮家の王女である。 農村では車上からよく路上に赤い色が見えた。道路脇に敷かれたシート上に大量の真っ赤な唐辛子が干されているところであった。冬を間近かにキムチ漬け用だろうと察しはついたが、半端な量ではなかった。 旅の連れは奄美で暮らしたことのある夫人仲間4人であった。 Sさんとはお揃いでアメジストのネックレスを購入している。お姑さんとずっと同居して実の母娘のようにみえる気持ちの優しい女性であった。後日訪ねた時にお姑さんが“私を置いて先に逝ってしまいました”と寂しそうに話された一言が脳裏に残っている。 「素敵にショータイム」、初めて見る番組である。 夕食後、何気なくTV番組を見ていたら、「素敵にショータイム」が目に留まり出演者名に惹かれて視聴する気になった。ジャンルの違う3人の歌手であるが、大好きな人たちの出演である。 出演者は、「布施明」、「ジョン・健・ヌッツオ」、「Ryu」の3人である。 今日のテーマは「愛」で、進行役もつとめる布施明は“愛を語るには歌がもっともふさわしい”と話す。 布施明 ジョン・健・ヌッツオ ウイーン国立歌劇場のテノール歌手として専属契約し、またニューヨークのメトロポリタン・オペラにもデビューを果たしている。国内での演奏の機会は少なくなるだろうとちょっと残念に思っていた。オペラ『サムソンとデリラ』ではドミンゴやゲルギエフとも共演しており、今後ますます世界の舞台でさらなる活躍が期待される。身長もありオペラでは舞台映えしそうな容姿である。 今日はクラシックの曲ではなかったが、2年ぶりにTVでの歌声を聴いた。ミュージカル《ウエスト・サイド・ストーリー》から「マリア」であった。 彼の声はリリックテノールで、豊かな声量、清らかさ、透明感にあふれる声に魅力がある。オペラ・アリアからミュージカルまでと歌いこなし夢と可能性を感じさせてくれる。 最近ニューアルバムを出しているので聴いてみよう! 一度生の声も聴いてみたい! Ryu ふんだんに映し出される雪景色と挿入歌は、ドラマの雰囲気作りに相乗効果をもたらしていた。美しい映像と挿入歌にははまってしまった。歌で聞くハングルの優しい響きは好きである。 ジャンルの違う男性3人の歌唱とメドレーは、美しい旋律の曲も声も融合し、重量感があった。そして、情感のある、迫力ある歌の世界を堪能させてくれた。40分番組では時間不足で物足りなかった。もっと3人の歌を聴きたかった。 2004.11.4記 今年は、日本は台風の当たり年である。 ニュースで、水没したバスの屋根に乗客が乗っている映像を見たときはびっくりした。60歳前後の人たちが、どうして早く下車しなかったのだろう? どんなにしてバスの屋根に上ったのだろう?と訝った。 台風慣れしていない地域では油断があったのでは? 台風銀座の鹿児島ではあまり人災はないように思う。 農作物の被害は、農家のみならず家庭の台所も直撃して影響が出ている。野菜類(特に葉物)の高騰は目が飛び出るようである。築地の市場でもレタスが8倍の高値で1個1000円とTVで報じていた。鹿児島のスーパーでも1個600円の値段が付いていた。 数日前のことである。趣味の集まりの所で聞いた。 「日本でも台風に名前がついていること知っている?」 「台風に名前がついているの、知らないけれど・・」 私も知らなかった。 現在では、台風は番号で呼ばれることが普通と思っていたので、意外な感じもした。 気象庁のHPを見ると載っていると聞いて戻ってから開いてみた。 アメリカだけが台風に人名を付けるという。名前を付けると憶えやすいし、呼びやすい。確かに後日になっても印象にも残る。記憶しているもので「ジェーン」、「キャサリーン」などがある。 「ノックテン」はラオスで「鳥」のことを指すらしい。 平成最悪の被害を出した23号は「トカゲ」と呼ばれ、日本では星座名が多い。トカゲと聞くと星座ではなく爬虫類のトカゲをイメージしてしまう。 招かれざる台風である。名前などどうでもよいのかもしれないが、親しみやすい花の名前などにしては如何なものでしょうか。東南アジアの国では命名されている。
2004.10.25記
9月に3回襲来した台風で大分落葉したが、花梨の実は台風の風雨にも負けず、落下することなく20個ちかく実を結んだ。今黄色く色づいて、まるでレモンのような色、形状である。 台風で葉が落ちてしまい、葉陰をつくらない分、枝から実がむき出しになり、秋の澄んだ青空にひと際黄色が映えている。椿や無花果の木と競り合って写真を撮りにくい。2Fのベランダからはよく見えるが周囲の風景が邪魔をする。 年によって実る果実の数は様々で、わずか1個のときもあるが、今年は多い。 ![]() 果実は香りがよく、匂いはりんごに似ている。花梨という「名前」も「文字」も気に入りなにかしら魅せられて東洋的なイメージを描いてしまう。確かに花梨材の飾り棚や床柱などがある。 今年はたくさん実ったのに、開花期は(4〜5月)見逃してしまった。いつも実のほうに気をとられている。 名前や芳香からくるイメージはおいしそうに感じる。ところが果肉はびっくりするほど硬くナイフも歯が立たない。甘い香りに誘われて食べたくなるが渋くて生食は無理である。花梨酒かはちみつ漬けが最適である。薄くスライスして焼酎と氷砂糖に漬ける。 花梨酒は薬用酒として知られ、咳を鎮めたり、喉の痛みをやわらげたり、疲労緩和する働きもあるという。そういえばのど飴としても売られている。 私はアルコール類には弱いが、今年は花梨酒をつくってみよう。 以前、ある本にジャムも作れると書いてあったので、一度試してみた。 加熱してもざらざらとした食感はどうしようもなく、ペクチン質が少なく、ジャムには向かなかった。 もっぱら芳香を楽しみ観賞用に愛でていることのほうが多い。 「花尾」・・・幼時の頃から脳裏に焼きついている地名である。 太平洋戦争末期に疎開したところである。 昭和18年も後半の頃のことである。 その後行く機会はなかったが、長年一度は訪ねてみたい、ずっと気懸かりに思っている所であった。日頃は目先のことに追われて忘れていた。 先日、たまたま一巡り下の高校同窓生・21期生のHPに遊びにいった。花尾神社の文字を見つけて、私の目は釘付けになり、吸い込まれていった。書き込み内容を読んで胸が躍った。 「花尾」、私が疎開した所であり、花尾神社には鹿児島と関わりのある歴史もあるらしい。俄かに行ってみたい衝動に駆られた。 次の週の日曜日に花尾へ向かっていた。60年ぶりである。 当時のことは薄らぼんやりとした記憶しかなく、近くに学校と小川があったことを記憶している。鮮明に憶えていることが一つだけある。夜空に鹿児島市方面の空が赤く染まっているのが見えた。子供心にも空襲を認識する光景であった。火の色は怖いと思った。60年経た今も記憶の中に像が映る。忘れられない。どんなものを食べていたか余り思い出せない。空腹を感じた憶えもない。 花尾には祖母、同じ年頃の叔父、弟、私が疎開し、祖父、叔父(中学生)、母は鹿児島の家に残っていた。 数少ない記憶と合致するものがあるだろうかと不安に思う反面、どんな所だったか早く見てみたいと急かれるワクワク感が入交じって緊張していた。県道328の花尾表示口から入っていった。黄金色の稲穂の田んぼが広がり、畦道に彼岸花、土手には萩の花が咲きこぼれ、のどかな田園風景である。しばらくして右手向うに、壁面の花尾小学校の文字と校舎が見えてきた。学校の前に小川があった。浅瀬だが流れがある。 住んでいたところは道路を挟んで学校と反対側のちょっと小高い所だったような気がする。家からは下ったところに学校が見えていたように思う。どの辺りだったかと見渡してみるが見当もつかない。戦前の面影を残すような家はどこにも見当たらない。特定できるようなことは何一つ憶えがない。60年も時を経て無理もない。 花尾神社へ向かった。 私にとって花尾は戦争末期に疎開したところのイメージしかなかった。花尾神社のことは記憶になかった。鹿児島にゆかりのある花尾神社が在ることを今回初めて知った。神社は樹齢を重ねた杉木立の奥まったところに建っていた。社殿は『さつま日光』とも呼ばれ極彩色使いの建物で県指定・有形文化財になっている。源頼朝と丹後局を祀(まつ)る神社だという。島津家初代当主・島津忠久は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)の男子といわれる。頼朝の烙印説は伝説のようだが本当のところはどうなのだろう?丹後局の墓もあった。 「花尾」で見た赤い夜空はずっと空襲の心象・残像として遠い記憶の中に居座っていた。この頃から記憶について朧気に自覚するようになった気がする。ここで言う記憶とは自分が経験体験したことを憶えていることを意味する。記憶することをはっきり認識できるようになった原風景のように感じる体験であり出来事であった。 どんな経緯で花尾に疎開することになったのか今となっては確かめようもないが・・・。疎開で私の幼稚園入園は幻に終わってしまった。 父は無事帰還した。私の名付け親だった伯父は戦死して帰らぬ人となった。 憶えていることが少なく、希薄な記憶しか持ち合わせていなかった60年ぶりの花尾は、長年離れていた故郷に戻ったような懐かしさを感じた。実り間近かの田園風景を眺め、初秋の風に吹かれ、秋晴れの清んだ空気の中で思いっきり深呼吸をした。 「もう夕ご飯済んだぁ〜。今小鯵を釣って帰ってきたばかりだけど食べる?」 戻ってお刺身で食べる分だけすぐ3枚おろしにした。活きものの鯵、鯖が手に入った時、我が家はわさびではなく胡椒の「たかの爪」で食べている。胡椒は新鮮な鯵、鯖などの青ものの魚、蛸にはよく合う。醤油にたかの爪をちぎって入れ、ちょっとピリッとする味蕾、食感が好きである。入れ過ぎると口の中が火照るのでほどほどに。赤く色づいた庭先の胡椒を摘んできた。刺身はぷりぷりして生臭さがなくいくらでも箸が進む。 青ものの魚は血液をサラサラにし、血行を良くする不飽和脂肪酸の一種、DHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)が含まれている。 釣り人は美容室の旦那さんである。自分で食べることより釣果を喜んでくれる人がいることがうれしいらしくいそいそと出かけていくと聞く。 お蔭様で魚好きの私までおすそ分けに与れるのである。大きなわたり蟹のこともある。調子のよい、魚好きの夫は、そことは仲良くしておきなさいと嘘とも本気ともつかない駄洒落を飛ばす。 早速小鯵を用途別に下ごしらえした。面倒でも鰓とぜいごは取る。 私は拵えることも食べることも大好きである。魚は丸ごと買って自分でおろして分解していくことが好きである。腹わたと鰓を除くと殆ど利用できるからである。中骨はコトコトとじっくり煮出して味噌汁やスープの出しとなる。頭は少しカマを付けて、兜煮、兜焼きにすると旨味が凝縮していてご馳走である。うまくさばいて食べると骨だけがきれいに残る。 スーパーマーケットでパッケージされた魚ではなく対面販売で買える魚屋で買うほうが気に入っている。会話もでき、魚の名前も覚えられ、知らない魚に出会ったときは余計うれしくなる。 2004.9.18記 流れる風に少し秋の気配を感じるようになった。 御大層なタイトルで申し訳ないのですが 60半ばになりこれまで何をしてきただろうか? 好奇心はあるが熱しやすく醒めやすい性格で継続して積み重ねたものがない。周りの友人を見ても長年絵や書を続けている人は賞をもらうようになり指導する立場になっている。継続は力なりと痛感する。 6年前に大病をした。無事生還して元気に過ごしている。 私は旅行が大好きである。旅行中は五感も全開する。 いざはじめてみると考えていたほどことは簡単ではなかった。 旨く書こうとしなくていいではないか、自分が感じたこと考えたことを平易なことばで書き、それを続けてみよう、無理はすまいと決めた。そうしたら気持ちも少し楽になってきた。 目を開き耳を澄まして、これまでより少し意識して、気になるテーマや事柄が浮かんできたらメモして短いフレーズでもwordに入力しておくくせをつけるようにした。 書くことは表現の一手段である。自分らしさ自分だけにできることを発見できたらしめたものである。それを求め、そうなりたいと願いながら、力まず自然体で書き続けていきたい。やがて自分のことばで滑らかに綴れるようになることを信じて。 身近に零れ落ちていることに目を向けて、そよ風に吹かれるように優しく在りのままを感じられたらいいなぁー、流れのまま(流れに棹されず)想いのままを表現・伝えられたらいいなぁーと夢想している。 2004.9.7記 ![]() 今韓流のドラマが話題になっている。 なかでも「冬のソナタ」主演男優「ペ・ヨンジュン」は日本やアジアで大ブレイクしている。中高年のおばさまたちに圧倒的な人気を得て追っかけしている姿をテレビで映している。 先日南日本新聞に80才近い女性のことが載っていた。 ドラマが話題になっていることは知っていたが私自身一度も見たことはなかった。 それが先月東京で宿泊したホテルで偶然一話を観た。17or18回目で粗筋や人物の相関関係は凡そしか分からなかったが純愛ドラマであった。 50年前のメロドラマ「君の名は」を想い出した。 先週末高校の同窓会総会に出席した。同期の女性3〜4人も冬のソナタにはまっていることを知った。2次会に行くことになり、冬のソナタが始まる前に帰ろうと聞こえてこれまた驚きであった。男性はこの夜のサッカーの日中戦が気がかりの人もあり、得点はわからないが、途中で日本が勝ったと伝わり歓声があがった。 一週間ばかり前のことである。 これで私も冬のソナタはまり組みになるのだろうか・・・・。 少しはときめき感を取り戻せるのだろうか? 2004.8.10記 私は国内外を問わず旅先でスーパーマーケットや市場を覘くことが好きである。 食材、特に生鮮食料品(魚介類・果物・野菜)に関心があり、なかでもその土地の特産品に興味を惹かれる。初めて目にする食材、見たいとおもってきた品に出会えると思わず歓声を上げたくなるほどうれしい。 サフラン(スペイン)、パプリカ(ハンガリー)は現地のスーパーマーケットでパウダー状のもがリーズナブルな値段で買えた。サフランを使ってパエリア(スペイン料理)、ヴイヤーベース(南仏料理)、パプリカでグヤーシュ・スープ(ハンガリー料理)を試みた。 スパイスには3つの作用があるといわれる。 胡椒はヨーロッパの人にとっては胡椒戦争が起きるほど重要なスパイスであった。 市販のカレー粉はいろいろなスパイス(ナツメグ、コリアンダー、シナモン、クミンシード、カルダモン、ターメリック、チリペッパーetc.)を混ぜ合わせて作られたものである。 20年ほど前にインドに駐在した人から習ったレシピをもらってカレーライスを作ったことがある。自分でブレンドしてつくったカレー粉でこしらえるとスパイスのインパクトが強く美味しかった記憶がある。出来上がりはさらさらと液体状でとろみはなかった。材料はチキンと玉葱カレー粉だけである。しばらくの間よく作っていたが、その後レシピをなくしたようで残念です。 カレー料理は発汗作用を促し体温調節して減退する食欲低下や胃腸の働きを呼び覚ます効果があるという。インドの人が好んで食べ酷暑を凌ぐということに納得がいく。 日本料理では素材を活かす調理が多いこともあり、スパイスというより薬味として使われている。季節感を感じるような木の芽、茗荷、青じそ、生姜,山椒など。 最近は店頭でもフレッシュ・ハーブを数多く見る。 スパイスは料理の主役にはなれないが主役を引き立て脇役として味を引き締めしっかり己の存在を主張している。味の決め手にもなる。このごろは手近かな所でいろいろなスパイスが入手できるようになって便利になった。 スパイスは――栄養素でいうならば蛋白質の必須アミノ酸、ヴィタミンのような役割を担っている。調味料の中ではこれが決め手のような存在である。 料理には隠し味の役目をするものもある。 日本酒、ワインは料理に旨味と風味を加え一種のスパイスのような効用をもつ存在であると思う。 スパイスは料理に香り、色、辛味の付加価値を加え、地域に根ざした各地独特の料理を生み出している。 諺に“山椒は小粒でピリリと辛い”とあるが 日常の中で家族やひと様のスパイスのような存在になれればと想う。 2004.7.11記 居を構えて住んだところは食べ物についても特別の感慨があり、おもい入れも違ってくる。 2年間暮らした奄美では奄美ならではの料理や食材に出会った。食生活は関心があり学びたい分野でもある。 お目にかかると“初めまして”と好奇心がムズムズ頭を擡げキョロキョロしはじめる。 先ず「奄美の鶏飯」を挙げたい。 鶏飯は奄美大島を代表する郷土料理である。その由来は藩政時代薩摩藩の砂糖取立てに対するあまりの厳しさに奄美の人々が役人をもてなす料理として考案されたと伝えられている。 奄美空港近くの「みなとや」は人気があり、島外からの来客も必ずといってよいほど立ち寄るところである。私も初めて奄美へ降り立った時此処で食べた。 味を覚えたら自分の味蕾を手がかりに作ってみる。自分にあった調味料や量を決めてレシピを作っておく。 奄美独特の産物が見られる永田マーケットもよく足を運んだ。昔ながらの市場の佇まいで対面販売で商っていた。 奄美のピーナツ味噌 お茶受け用として食する。奄美の味噌、生のピーナツ、削り節、砂糖で作る。戻ってから数年は材料を取り寄せ作っていた。親戚や知人に送っていたが、珍しい、おいしいと好評であった。(作り方は「食べる」のレシピ集参照) カシャ餅(よもぎ餅) 市中を歩いていると餅を蒸す蒸気の立ちあがりと一緒に匂いまで流れてくる。サネン花(月桃・ゲットウ)の葉に包んだよもぎ餅を作っていることが遠くからも判る。生の葉は匂わないが加熱すると芳香がする。南薩地方(枕崎、笠沙)にも似たような団子がある。 果物の種類も多い。 すもも――果肉が中まで真紅で、生食・すもも酒・ジャムに加工してもまるで宝石のルビー色のよう。 【夏】―――パッションフルーツ、グアバ、パパイヤ、バナナ。 バナナはモンキーバナナに似ていて小房で、「小笠原」という品種で皮は薄くもちもちとした食感で甘い。パッションフルーツ、パパイヤは庭先で育ち収穫した。 けらじみかん――喜界島が産地。櫻島みかんサイズのあおぎりみかん。香りがよく酸っぱくなく生食、果実酒に。 マダ汁(イカ墨のスープ)も体験した。真っ黒な汁でびっくり!お歯黒のように黒くなるがコクがあって独特の風味があり美味しかった。イカ墨パスタがあることも頷ける。 ところ変われば食文化も違いがある。野次馬根性をくすぐられる様な食材が多かった。なかでも奄美の「鶏飯」と「ピーナツ味噌」はお気に入りメニューとなっている。
2004.7.7記 奄美の夏は暑い。 奄美は海洋性・亜熱帯性気候で、一年中温暖である。 四季の区別もファジーで冬の季節感はあまりない。暖房要らずで過ごせる。 名瀬市は10数年前に2年間暮らした所である。 4月に來島したがゴールデンウイークの頃から冷房が必要となる。はじめの年は暑さに慣れず自分の呼吸を調整できないような感じがした。 高度を下げながら着陸態勢に入る。 この時期、波打ち際に近い海岸の砂浜にはグンバイヒルガオ(軍配昼顔)が群生している。名前の由来は葉の形が相撲の軍配に似ていることからだという。 ハイビスカスも奄美の夏のシンボル(象徴)である。 燃えるように真っ赤なハイビスカスの色は灼熱の夏の暑さにも負けない情熱の色である。夏はより色鮮やかな大輪を咲かせている。存在感がある。品種改良されていろいろな色、巨大輪もある。 ゴールデンシャワーにも初めて出会った。 1つ1つは目立たないが、黄色い房状の花がすだれ状に垂れ下がっている。 ポインセチアにも驚いた。 私が知るポインセチアは赤い葉のクリスマス用の鉢植えである。 奄美の自然の醍醐味は海である。奄美らしい表情を見せる夏の海である。 植物も色鮮やかで魚類もカラフルである。奄美の人の熱情を表しているような色群である。 パッションフルーツ、グァバも南の夏の産物である。パパイヤは毎日眺めている庭先で育つ。もぎたてにレモン汁をかけて食べる。甘くておいしい。 奄美には夏の暑さ以上に私を惹きつけるものがある。 2004.6.30記 今年も又ビンゴゲームの日がやってきた。 ビンゴゲームと聞くと年甲斐もなく冷静でおれないものがある。子供でもあるまいにと思われるでしょうが、私にとってはたかがゲームされどゲームなのです。 1年に1回夫の勤める会社(船会社)では家族親睦会が行われている。 この日は家族ぐるみのボーリング大会とビンゴゲーム、親睦のパーティーが催される。 今年は6月13日(日)に与次郎の「ベイサイドガーデン」で行われた。 総勢150人くらいの参加者で赤ちゃんからお年寄りまで家族総出で参加している人もいる。3時前にボーリング会場に着いてみると、ネーム入りのTシャツを着てマイボール持参している人もありやる気満々である。 楽しみの目玉はボーリング後に行われるビンゴゲームとパーティーである。 抱えきれないような賞品を獲得した家族、はずれ組みは来年は頑張ろうと帰っていく、これもまた楽しからずやである。 母の日(mother’s day)、父の日(father’ day)とあるが、社員にとってこの日は家族の日(family day)である。 毎年、体は軽く爽やかな気分で帰ります。 2004/6/23記このページのトップへ 鹿児島から上海へ直行便が飛ぶようになった。 定期便就航前、3年前の春にチャーター便で行く5日間のツアー旅行(杭州、南京、蘇州、上海)に友人と参加した。 旅行4日目の蘇州観光の日であった。蘇州の名所寒山寺を見学して昼食後の頃からIさんの具合が悪くなった。彼女は旅行前に風邪をひいて病院の薬も持参してきていた。額に手を当てると熱い。顔も火照って熱発している。添乗員に話して、体温計を借りて計ってみると37.5度ある。 夕方上海に着く予定でそれまで我慢できるだろうか、大丈夫だろうかと心配する。2人とも午後からは観光どころではなくなり、皆が観光で下車している間、バスの中に残って彼女の傍にいた。 添乗員(20代後半ぐらいの女性)に上海に着いたら病院へ連れて行って欲しいと頼んだ。明日は帰国の日である。こんな状態で一緒に帰国できるだろうか心配になってきた。車内でも気分が悪そうで目を閉じほとんど眠っていた。なんとか上海のホテルに辿り着いた。 添乗員はツアー客と夕食と観光に出かけるので、現地のガイドさんに病院へ連れて行ってもらうことになった。私も同行した。ホテルは上海の中心街にあった。行った先はタクシーで10分ぐらいの距離のところで医学院の付属病院であった。5時頃着いただろうか。 女医と看護婦らしい人が応対してくれた。1人の人は日本人のように見えたので思い切って尋ねてみたら神戸から来ていますという。医療現場ではなく事務方の仕事のようであった。 診察が済み数日かかるような話である。明朝帰国するという前夜に大変なことになったと案じた。熱も39度ある、風邪がぶり返したのだろうか、病室に入り点滴がはじまった。病室は1F奥のちょっと離れた個室であった。6時半頃神戸から来ている女性も帰宅しますと病室に寄ってくれた。彼女がいたから私も心強かった。 病室で暫らく現地ガイドさんと話をした。日本語も流暢でよく勉強している。今の仕事が希望したものか尋ねると、第1希望は医者です。中国でも医者になることは大変難しいです。出身は上海のすこし南の確か「寧波」と聞いた。 病室に病人の彼女と私の2人残ることになる。2人とも夕食を摂っていない。 暗い慣れない道を、ちょっと心細く思いながら、横筋を確認しながら今来た道を急ぎ足で戻った。距離にして100メートルぐらいだったが、言葉の通じないところでの暗い夜道は長い距離に感じられた。 空腹であることも忘れていたが、お腹に納めてちょっと落ち着いた。熱のある彼女もヨーグルトは美味しいと食べてくれた。何よりまず熱が下がることが第一だと思い、自分の判断で30分おきぐらいに体温を計って時刻と体温をメモした。 2時間ぐらいはあまり変化がなかった。このまま今夜はここに留め置かれるのだろうかと不安になってきた。人気のない夜の病院は照明の灯りも疎(まば)らで静寂だけが漂っている。言葉・地理を知らない外国で不安感が募ってくる。落ち着かない。 わけのわからないものが頭の中をぐるぐるまわりしている。私は旅程どおりに明日帰国しなければならない。彼女を残しては帰れない、何が何でも一緒に帰るのだと必死のおもいであった。 添乗員からはなんの連絡もない。夕食後夜景見学も組んであったのでまだホテルに戻っていないのだろうか。時おり当直らしい看護婦が様子見に来るが英語は通じないようで、記録した体温の数字を見せて、手でup、downの仕草をして伝えた。 10時半頃、現地ガイドが戻ってきた。彼女の熱も37度ぐらいまで下がってきた。医局の人と連絡をとったようでホテルへ戻れることになった。彼女も頑張り、私の願いも通じ、おもいも届いたようである。帰国したら病院へ行くように指示された。 ホテルに戻ってみると添乗員は帰ってきていた。先に戻ってきていて病人のことは気にならなかったのか、心配でなかったのか、詳しいことを聞くでもなく私には合点がいかなかった。 Iさんにはすぐ部屋に行き休んでもらった。自宅に鹿児島空港へ出迎えてもらうよう電話してもらった。彼女を残しての帰国になったらどうしよう?と心配した。予定通り帰国できることになり、張り詰めるようだった緊張感もちょっと解(ほぐ)れ平常心を取り戻せた。 翌日は早い帰国便だったので昼には鹿児島空港に着いた。“あぁーよかった!予定通りに帰れた!”無事帰国でき出迎えのご主人にバトンタッチして安堵した。私の歩く足どりも急に軽くなった。ほっとした。しみじみ逆の立場でなくてよかったと思った。 海外旅行で同行者が病気になって現地病院へ行ったことは、初めての経験であった。 場面に因って自分がどのよう行動をとればよいか、とっさの判断を迫られる。窮すれば通じるでなんとかなるものである。 夜の病室でIさんと2人っきりだった3時間ぐらいの時間の流れを想い出す。病状の心配と帰国への不安とが交錯してなんと長い時間に感じられたことか。 海外旅行の時は保険に加入すること、体調万全で参加することの必要性を痛感した。 問題は添乗員の対応であった。 あとでどうしてあんな行動をしてしまったのか反省していると伝え聞いた。あれから3年、今は信頼される添乗員になっているだろうか、それとも結婚して幸せに暮らしているだろうか? 2004.6.17記 思わぬところで予期せぬことに遭遇することがある。 東横線に一駅乗って、多摩川駅で蒲田行きの東急多摩川線に乗り換えた。 10分ほどして救急車が来た。 20分経過しているので飛行機の搭乗時間が気になり気は急く。事故のことも気になるが、身動きとれなくなり下車してここから羽田までタクシーで行くことに決めた。 駅だからタクシーはすぐつかまると思った。それでも近辺の地理に詳しいだろうと思われる近くの店の人に頼んでタクシーを呼んでもらった。10〜15分掛かりますよと言われたが待ってもなかなか来る気配がない。 そうしているうち電車が動き出した。蒲田まで乗ってそこからタクシーで行くほうに切り替えた。タクシーを呼んでくださった婦人もよけいなお世話だったかもしれないわねと済まなさそうに言われたが、気が急いてしっかり御礼も言わずに電車に飛び乗ったような気がする。 駅のホームでは地元の人が京浜急行で空港へ直行するルートが早いのではと教えてくださる。すでに40分のロス時間、今更ルート変更も出来ない。行くところまで行ってもし間に合わなかったら後の便の航空券を買おうと腹を決めた。 全日空カウンターめがけて一直線。 今回の上京はマイレージを使ってフリーの搭乗券であった。 羽田へのルートはいくつかある。時間の余裕もとっていた。 東京はかって家族と3年住んだことがある。電車の路線が増え乗り継ぎ箇所も増え複雑になっている。目的地への最短ルートは路線図を見ても簡単ではない。判りにくい。地下鉄はメトロの表示に変わった。おのぼりさん気分である。 とっさの時の判断・・・ハラハラ、ドキドキさせられたが、何事もなくすんで安堵した。 時として予期せぬアクシデントに遭うことはあるだろう。あまり有り難くないが、今回はよい学習?をしました。 2004.6.11記
この日は高校同期の塩崎敬子さんの個展最終日で、よい機会と思い銀座にある「和田画廊」へ訪ねていった。 関西から大学後輩の友人、親戚の方々、越谷からは50年振りに会うという小学校の友人、みみずく(高校同期会)のTさん、大勢のギャラリーで賑わい、彼女の交友の広さがうかがわれた。 私は彼女の個展を見るのは初めてである。そして同じクラスになったこともある彼女とは実に高校卒業以来45年ぶりの再会でもあった。“三つ編みのお下げでしたよね”と言いながら握ってくださった優しい手から温かいぬくもりが伝わってきた。 薔薇の花の絵が多く彼女のテーマであるようにおもった。一輪の薔薇が画面を大きく占めている。 紅い量感のある薔薇、背景の白に溶け込むような優しいピンク色の薔薇、どれも神秘性を秘め、私を魅了する、和ませてくれる。 なんだろう? 絵の中にしっとりとした独特の雰囲気が漂っているのは? 会場で思いもよらない感動的な「20年ぶりの再会の場」に遭遇した。 塩崎さん1984年作の絵、「アンティーク・ドール」にまつわるエピソードである。 ![]() この絵を購入したT工務店(関西在住)の人がその数年後に亡くなり、子供さんもない人で絵の行方が気になっていたという。 89年、若いカップルが横浜のアンティークショップでこの絵に出会い購入した。2人の結婚の年でもある。 若い奥さんの心を捉えて離さなかったそうで、“私を置いていかないで!連れて行って!”と耳元に聞えたという。手でつかめそうなガラスのペンダント、指先で触れられそうな髪、頭にかぶせられた蕗の葉は帽子に見えましたと話す。 当時は、署名からは作者がどんな人か分からずにいたが、後年ネットでプロフィールが分かり驚いたという。塩崎さんへ連絡されたようだ。 都内でコンビニを経営するご夫婦で、仕事柄会場へ足を運ぶ時間がなかなかとれずに最終日の日になりましたと。今回の個展会場に家族で絵を持参され、「アンティク・ドール」の絵は作者の塩崎敬子さんと20年ぶりの再会、ご対面となった。 二人にとって今年は結婚15周年で、“これからもずっと大事にしていきます、 絵のモデルとなった人形は、(故)鴨居羊子さん所有のアンティークドールで、それを塩崎さんがお借りして描いたという。 彼女は下着ディザイナー、画家、エッセイスト、人形作家として非凡な才能を発揮したが、1991年亡くなっている。 “蕗の葉とペンダントは私が着せました”と塩崎敬子さんは話された。 絵が作者の手元を離れて、所有者も絵の行方もわからなくなり気懸かりに思っていたときに、持ち主がわかり、その絵に20年ぶりに再会できる。物語の世界のような偶然の巡り合わせ、まさに絵に描いたような話である。いい話である。 もの創り(芸術家)の手から受け取り手へは、目に見えない以心伝心するものがあるように思えてならない。メッセージが伝わるように思えてならない。 「アンティック・ドール」の絵は心優しいファミリーと一緒で家族の幸せの象徴であるに違いない。わたしにはそうおもえた 創ること、芸術とは・・・人の心を動かすこと、人に感動をあたえること・・・そんなことを想いながら、偶然遭遇した素適な再会の余韻に浸りながら画廊を後にした。 2004.6.6記このページのトップへ
「だんご3兄弟」、「未納3兄弟」と3兄弟にもいろいろある。 だんご3兄弟は仲良し3兄弟で、歌が作られ、子供たちに歌われ、もてはやされ、ひところブームになった。歌は明るく軽快で、口ずさみ易いメロディーである。 未納3兄弟は問題あり3兄弟である。 そもそも、ことの発端は社会保険庁のCMに出演したEタレントが国民年金を納めていなかったことからであった。公告料として数千万支払われたことに、衆目が異議ありとなった。タレントは謝罪して返納(金)した。 国民は年金問題に関心がありその年金法改正の行方に注目している。われわれの年代は受給者の側へまわりつつあり、関心があるばかりでなく、切実な問題でもある。 ところが、非難した国会議員の中に年金を納めていない期間がある、所謂未納者が出た。 政府の中の閣僚に未納3兄弟が生まれた。 この兄弟は繁殖力(波及力)よろしくほかの閣僚、国会議員のセンセイ方まで拡大していった。いずれの党にも未納者が出て、まるで未納者露見合戦である。 日増しに未納3兄弟の騒ぎが大きくなった。あまりにも未加入?未納者?のセンセイが多いことに国民は怒(いか)った。その範となるべき国会議員のセンセイがこの体たらくである。呆れるばかりで腹立たしい。 もう一つ気になる3兄弟がある。 それは素晴らしい芸術家・3兄妹の「千住3兄妹」である。 長兄 博(日本画家) 次兄 明(作曲家・音楽プロデューサー) 妹 真理子(ヴァイオリニスト) 明と真理子が兄妹であることは以前から知っていた。共に音楽の世界で活躍している。 長兄がいてニューヨーク在住の日本画家であることは最近になって知った。テレビの番組を通じてのことである。 「大徳寺聚光院伊東別院」の80枚の襖絵を作成したことで知られる。映像から見ても作風はスケールの大きい連続性を感じさせるものである。 さらに驚き感心することがある。この3兄妹は40代前半の若手であるにもかかわらず、それぞれの分野で第一人者であることである。どのような親にどのように育てれたのだろうと素朴な疑問が湧いてくる。父(故人)は「なにごとも全力で取り組む」をモットーにするが教育方針であったようだ。 3人の才能と努力に負うところが大きいのだろうが、専業主婦で愛情豊かに育んだ母の存在を感じる。「今でも兄妹の仲がすごく良い、何も言わなくても分かり合える部分が多く、3人で仕事をする時など驚くほどです」とインタビューで妹の真理子が語る。 日曜の昼下がり、独り居た。 何気なくTVのスイッチを入れると次兄明の取材番組であった。 次兄の明はすべてのことに手抜きしない徹底して完璧なものを求めている。 部屋には兄の絵が掛けられガレーのランプor花瓶?が置かれている。兄の絵は彼を癒してくれ、地震があったらまずこのガレーの作品を持って逃げますと話す。内面も充たされて納得がいく最高の音楽を作りたい、求めていきたいという。 料理にもこだわりがある。勿論美味しいものを食べに出かける。自分で材料を選び料理もつくる。兄妹を招待する。兄はニューヨークからとっておきのワインを抱えてやってくる。 作曲中は簡単な弁当で済ますことが多いそうだ。たまに寄る兄妹のために食材を吟味し、気を抜くことなく台所に立ち調理する姿を観ていると驚きとその手さばきのよさに感服する。女性の出る幕無いじゃないと思う。ワイン・ソムリエの資格も有する。兄妹仲良く食事しながら談笑している、3人だけの時間を共有している、素晴らしい千住3兄妹である。 もう一つ想い出したことがある。 これもTVだが、彼がアメリカ西海岸から南部ジョージア州のアトランタまで自ら運転して旅する番組であった。アトランタはかって亡き父が大学教授で赴任し家族で暮らしたところである。そのとき父が運転したルートを再訪、追想する旅である。 妹の真理子はプロデビューも早く天才ヴァイオリニスト少女として活躍してきた。数年間のブランクも経験して又見事に甦った。いま、ヴァイオリンの名器として知られる「ストラディヴァリウス」から素晴らしい音を奏でている。 三人三様、絵に描いたような才能に恵まれ、その才能を遺憾なく発揮している芸術3兄妹である。まだ若い。前途洋洋としている。 これからも気になり見守りつづけたい「千住3兄妹」である。 2004.5.21記 ここの所、列車旅行に惹かれるものがある。 年とともに、時間のゆとりがない、せかせかした気忙しい旅は、印象が薄く、馴染まなくなってきていることもある。往復便は飛行機でも,現地に着いたら列車に乗ってゆっくりのんびりした旅をしてみたい。 折りしも今、NHK・BS放送15周年記念番組で、 「列島縦断・鉄道12,000kmの旅」を、5月6日から毎日15分ずつ、放映中である。 北海道の稚内をふりだしに九州の佐世保まで列車で42日間かけて旅をする。 はじめて知る「駅の名や、風物」に驚いたり感動したりして毎日が楽しい。 「上有住駅」近くの滝がある鍾乳洞、JR北上線の「ほっとゆだ駅」の温泉など・・・・新しい発見がありワクワクしながら観ている。 「ほっとゆだ駅」とは名前も面白い。 駅と温泉が同居しているとはなんとも意表を衝かれる趣向である。列車待ちの間に一風呂浴びられる。浴場内に信号機があり,列車発車45分前に緑、30分前に黄、15分前に赤が点灯して知らせてくれる。なんともユニークな駅である。 [遠野]では、おばあちゃんがいろり端に座り、やわらかい東北訛りの語り口で民話を語るにこやかな表情が優しい。笑顔がよかった。画面から見ているだけでも、邪気のない童心にもどれるような雰囲気に包まれていた。隣に座って聴いてみたいとおもった。 日本のよさを再認識するこの[鉄道の旅]を最後まで見届けよう! ツアー旅行の中に列車を利用するルート(コース)が含まれているとうれしい。 昨年のロシア旅行の時である。「サンクト・ペテルブルブ」から「モスクワ」へ夜行列車(コンパートメント)に乗った。久しぶり寝台列車に乗るので修学旅行気分で高揚していた。夕食も終わり、バスでサンクト・ペテルブルブ駅(これも思い込みによる錯覚)へ移動する車中で、ガイドが「これからモスクワ駅へいきます」と案内した。 謎はすぐ解けた。 サンクト・ペテルブルブにはモスクワ駅がある。行き先の駅の名前が付いているのである。モスクワ方面へ行くときはこのモスクワ駅から乗車する。ほかにフィンランド駅、ワルシャワ駅などがある。単純な私の頭の中では、サンクト・ペテルブルブにはサンクト・ペテルブルブ駅とう名の駅があるものと思い込んでいたのである。 実際にはサンクト・ペテルブルブのモスクワ駅からモスクワのレニングラード駅へ行くことになる。モスクワから乗車する時はその逆になるのであろう。 サンクト・ペテルブルブのモスクワ駅⇔モスクワのレニングラード駅 とっさには解かりにくく、合点がいかなかった。ややこしい。紛らわしい。混乱する。素人考えでは都市と駅名がどちらも同じのほうが解かりやすいじゃない?と思ってしまう。 一瞬矛盾しているように思ったが、実は合理的で親切なのかもしれない。ロシアは広大な国である。ロシア国内に限ってのことなのだろうか。 野次馬根性の私は、それではフィンランドや(多分ヘルシンキだろう)ワルシャワにサンクト・ペテルブルブ駅があるの?と詮索したくなる。機会があれば自分の目で確かめてみたい! 大都市ロンドンやパリでも幾つもターミナル駅があって国内外へ向けて発着している。しかしロシアのような乗車をする話は聞いたことがない。日本でも東京,新宿,上野のターミナル駅がある。 ヨーロッパ大陸のように陸続きに国際列車が走っているところでは行く先もさまざまであろう。わかり易いように分散する必要性があることは容易に理解できる。ターミナル駅が必要であろう。多すぎるのも複雑になってわかりにくそうだ。 4年前のロンドン旅行の時に、ウォータールーの国際線駅ではパリやベルギー方面へ走るユーロスターが停車しているところを見た。このまま乗ってしまいたい衝動に駆られた。 ユーロスターに乗りたくて、ロンドンからパリの美術館見学でも・買い物でもいい、日帰り旅行をしようと思ったりしたのだが―――。そのときは冬季で日没が早いこともあって無理があると思い断念した。 海外旅行でも観光はバスで移動するツアーが多い。豪華なオリエント急行などとは言いません。時間と余裕があればゆっくりのんびりとローカル列車の旅をしたいものだ。若い頃は列車旅行が主流で、旅のスタイルだったようにおもう。 もう一箇所乗ってみたい列車がある。チャンスがあればと密かに温めている。数年のうちにはという願いをもっている。 それはヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島を橋とトンネルで陸続きにした列車に乗ることである。 数年前に、スエーデン南部の[マルメ]とデンマークの[コペンハーゲン]がトンネルで結ばれ陸路で行けるようになった。北欧旅行の時にと思っているがツアー旅行では無理でしょうか? 列車ではないがイギリスだったら「ナローボート」に乗って運河めぐりの旅にも
船内見学と昼食をいただける機会に恵まれて夫と出かけていった。北埠頭の桜島を背景にした絶好のロケーションに停泊している。 岸壁から見る「飛鳥」は、先ず船の大きさに驚く。まるでビルを見上 visitorの名札をつけて飛鳥の船上にあがった。総トン数28,000トン、全長192m、全幅25m、客室296室、乗客数592名。 今回は「ゴールデンウイーク日本一周・韓国クルーズ(12泊)」のコースで、 横浜→鹿児島→釜山→萩→舞鶴→利尻→浦河(北海道)→仙台→横浜 を寄港しながら船旅を楽しむ旅行だという。 客室は満席だそうで、ゆとりのある人がクルーズライフを楽しみながらゴールデンウイークを過ごしているのだろう。まさに名実共にGWに違いない。乗客は、鹿児島市内、指宿方面へ観光に出かけていた。 女性ガイドの案内で船内を見てまわった。10Fデッキまであり、 タラップを上りロビーに入ると、壁画家・田村能里子作「季の奏」の壁画が 一際目を惹く。女性像の人物をモチーフにした絵が、吹き抜けの壁面一杯に描かれている。 船内で過ごす乗客の写真も貼ってあったが、ラウンジルームでくつろいだり、ソシアルダンスのステップを踏んだり、カードルーム(囲碁は一番の人気)で興じる人、正装姿(和装もあり)、晩餐会など、日常生活とはかけ離れた場面が多い。 もらったパンフレットを見ると、世界一周クルーズ100日間コースもある。 5F「フォーシーズン・ダイニング・ルーム」で昼食を頂いた。 入り口には大きなワインセラーがありいろいろな銘柄のワインが並んでいる。 軽い昼食と聞いてきたが、メニューを見るとフルコース(和食)である。サーブする人は東南アジア系の人が多い。飲み物もさっと差しかえしてくれる。アルコール駄目な私はパイナップルジュースをもらった。フレッシュで甘さ控えめ爽やかであった。
「鮎の煮浸し」 「かぼちゃ釜冷やし茶碗蒸し・海老 イクラ
枝豆 オクラ セルフィーユ」 今日の料理は、作り手の気持ちと心が伝わってくるメニューであった。 季節感にあふれ、味蕾(みらい)をくすぐられるような新鮮な感動があった。 心から美味しいものを頂いたという満足感があり、味覚・視覚・知覚共に充たされ、至福のひと時であった。 この年代になってくると、四季を感じ季節を味わえる食材を使った和食に惹かれる。今なら筍、つわぶき、蕗、ふきのとう、こごみなどの山菜、グリンピース、そら豆,桜鯛・・・・と枚挙に遑(いとま)がない。 今日は、飛鳥の船内見学と、昼食を頂いて、少しばかり豪華客船の雰囲気を体験できた。 夕方7時に釜山へ向けて出航するという。 2004.5.5記
パソコンは面白い。今や日常生活の一部分となって楽しんでいる。 ほんのちょっとした偶然がきっかけであった。 今から3年半前のことである。 記念切手買いに近くの郵便局へ出かけて1枚の張り紙が目にとまった。 研修会は日差しも強い9月半ばの日で、講習時間は9時〜16時までとなっていた。弁当持参でバスに乗って出かけた。 30代ぐらいの女性講師と郵便局職員3〜4人がサポートして講習が始まった。受講者のPC習熟度は一様でなく、私のようにまったく初めての人もあった。研修会用のテキストが準備してありそれに沿ってPCの「ABC」から詳しく説明されていった。 午前中は主に講義で話を聞くことが中心であった。 翌年の年賀状(文面)を作成することになった。いきなりでよい文面も浮かばなかった。 “あぁそうだ、アンネさんへ出す賀状にしよう”と思いついた。 彼女の生まれはデンマーク、現在鹿児島在住の女性です。 Happy New Year ! I wish good health and happiness to you. 2001.1.1 の文面と自分の名前を入力するだけで精一杯であった。普通ハガキとインクジェット紙に印刷した。PC研修会をして年賀状売上アップを計る作戦かな?と郵便局らしいなと穿った見方をしてみたり・・・。 「一日研修ではとてもパソコン操作ができるとは思えない」 「自分で操作できるようになれば面白そうな予感がする」 「それには継続学習の必要がある」と感じた。 久しぶりに机と真剣に向き合って疲れたが、充実感も味わった。 人の出会いはわからないものである。ちょっとした偶然の重なりであった。 その後この時の先生にPCを教えてもらうことになるとは思ってもみないことであった。 終了後に少し話をして自宅で少人数グループの教室を開いていることを知った。“10月から新規生を募っています、よかったら一度体験学習にどうぞ”と言われ早速出かけていった。かねがね始めるからには基礎からきちんと学習したいと思っていた。 それと先生の指導方針にも共感するものがあった。彼女は娘とほぼ同じ年齢で東京勤務から帰郷後10年経っている人で、 こうして(このような経緯で)パソコンを始めることとなった。 旅行から戻り、待ち焦がれていたパソコンが届いた。これからが本当の文字入力の練習の始まりである。 正月に子供が帰省して“お母さん、文字入力は結構出来るようになっているよ”と言ってくれた時はうれしかった。 早速子供3人に初メールを送信した。3人から一様に“お母さんおめでとう!これからいろいろなことをメールでやり取り出来るね”とよろこんでくれた。 インターネットでいろいろなことを検索していくと知らない世界が広がっていく。 主婦であり雑用に追われて復習することなく教室へ行くことも多かった。その間好きな旅行へもいった。 初歩のword,xcelなどにtryしながらマイペースで進んでいった。そうしていくうちに、徐々に肩の力も抜け、気楽になり、苦手意識も薄らいできた。むしろパソコンが面白く楽しくさえなってきた。 PCの最終目標は、自分のHPを作ることだと思っていた。そのおもいも熟し、とりかかる頃合と感じた。 PCは楽しんで見たり使ったりするものだと思う。一つの趣味に過ぎない。 今宵もメールチェックをし、トピックス・ニュースを読んでパソコンを閉じた。 2004.4.10記 老いは目から来るとも言われているが、正にわが身に降りかかり切実なものがあ。 私の住んでいる所は約30年前に宅地造成された団地である。此処に20数年住んでいる。 この頃おもてで子供の声が聞えなくなったなと思っていたら、家の通りから子供の姿を見かけなくなった。 同世代だった子供の親達が、遠目にすれ違いざまに、めがね(老眼)姿が目に付くようになった。 初めてめがねの必要性を感じたのはパソコンを始めた頃である。 めがねをかけると確かにパソコン操作のときは楽で勝手がいい。文字を読むには具合よくなった。 団地の中も世代交代が進んでいるように感じる。 身体も地域も元気がなくなることは寂しく侘びしい。 2004.2.20記
ちょっと分からないこと、気懸かりなこと、知らないことを確かめるにはどんな手立てがあるのだろう。ものぐさな私の場合、手近かに手の届くところにあるもので間に合わせている。 それは「国語辞典」、「英和辞典&和英辞典」、「地図帳」の3点セットである。最近はこれに「パソコン」が加わって4点セットになっている。 国語辞典と英和辞典は子供が高校で使っていたお古、和英辞典は次女からの誕生プレゼント、地図帳は30年近く前に購入したものを使っていた。旅行大好きの私にとって地図帳は欠かすことのできない必需品である。 なかでも「地図帳」と「国語辞典」には特別の思い入れがある。半世紀近く経った現在でも、忘れられない思い出があり、その記憶は今でも鮮やかに蘇ってくる。 世界情勢が大きく変わってそれまで使っていた世界地図では用を足さなくなった。高校で地理を学ぶ頃はアフリカには植民地の国が多く、ベルギー領コンゴ―(現コンゴ共和国)ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)など頭に首領国が付く国名が多かった。 社会主義国の崩壊で旧ソビエトをはじめとする東側の国が細分され、国名も変わり位置関係がますます判らなくなってしまった。ユーゴースラビアが崩壊した時は政情・国名ともに複雑になり、ボスニアヘルツェゴビナなど文字を追うだけでも大変で舌をかみそうに発音し辛い。地理好きの私もお手上げである。 そんなことで直ぐ場所確認できなくなったこともあり必要に迫られて4〜5年前に新しく購入した。本を読んだりTVを見ているとき地名が出てきてどこのことについて語られているかすぐわからない。地図を広げて確かめることが出来ると納得も早く理解し易い。そうすると位置確認だけでなくそれから派生することも知ることが出来、他への興味・関心の度合いが広がるのである。 逆の現象も生じている。古い地名で書かれた本を読むときは前のものが役に立つのである。 どうも高校の地理で使っていた地図は処分してしまったようで見つからない。今ではしまったと悔やんでいる。 日頃見慣れている世界地図はメルカトル図法・正軸法という平面図である。これで見ると日本は地図の真中に図示されそして太平洋を広く感じる。この図法では地球は丸いので距離感は掴めずわかりにくい。 私は旅行後に地図上で再確認の旅をしている。 出征していた父が復員してきたのは私が小学3年のときである。 それまで母の実家に居候で、家も戦災で丸焼けになった。 少女時代はまだ敗戦の足跡をひきずっている頃で物は乏しく本も少なく活字にも飢えていた。目でみる娯楽も少なく映画も1年に1〜2度見ればよいほうであった。 知識を得るには自分が活字を読んで吸収するしかなく、それが一番の近道でもあった。 小学4年のときである。自分用の辞書をはじめて手にした。 それは国語辞典でその時のことは今でも鮮やかに蘇る。 初めて買ってもらった辞書で、うれしくてうれしくてこれで世の中のことが何でもわかるような気がしたものである。(その頃の身の丈のことではあったが)ちょっと気にかかることがあると無心になって開いて確かめていた。自分で予想したことと合っているか確かめるまでのワクワクドキドキ感は今でも想いだす。 中学校へ上がってからもう少し語彙数の多い辞書を使い始めた。 担任が国語教科で三省堂編(金田一京助)を薦められた。 今使っている子供のお古も、新明解国語辞典(三省堂編・金田一京助他)である。言葉の意味と文字の確認には手っ取り早く重宝している。改訂版とはいえ今も学校で使われてロングセラー(ロングユース?)なのだろう。そうおもうと世代をまたがって使い継がれているこの辞書により一層愛着が湧き、はるかに遠くなった中学の頃の自分を重ね、時の流れを回想し感慨深いものがある。 英和と和英辞典の出番は少ない。会話の真似事の時はいたしかたなく必要になってくる。スペルに自信がない時は両方から確かめている。カタカナ書きの横文字、和製英語が氾濫して解かりにくくなっている。 あやふやな事を確かめる必要があるときは自分ですぐ調べるに限る。 還暦も過ぎた。とりもなおさず老化しつつある脳に刺激を与えながら手間隙かけて自分の手で4点セットを操ることにしよう。 2004.2.18.記 「トワイライト」という言葉を久しぶりに目にした。 かれこれ10年位前になるだろうか。「高橋真梨子」の歌う曲の中に「トワイライト」という言葉があった。 彼女の曲は大好きで、以前はカラオケで好んで歌っていた。五番街のマリーへ、桃色吐息、ジョニーへの伝言、ジュン、for youなどは好きな曲である。彼女の唄には大人の女性の雰囲気があり情感のあるソプラノの音色が好きである。 今年度のアカデミー映画男優助演賞候補に日本映画『ラストサムライ』の渡辺謙、外国映画賞候補に『たそがれ清兵衛』がノミネートされた。メディアでは『たそがれ清兵衛』は『ザ・トワイライト・サムライ』と英訳されている。私にとって久しぶりに「トワイライト」という語句の登場である。映画はどちらも見ていないのでストーリーとイメージが捉えられなくてちょっぴり残念です。 そもそも「トワイライト」とは何のことだろう、どういう意味だろう? 英訳された映画の題名の額面どおりに受け取り、トワイライト=たそがれ(黄昏)と解していいのだろうか。 なにかしっくりしない。ぴんと来ない。それだけではなさそうである。 今度こそしっかり確かめてみよう。調べてみることにしよう。 英和辞典を引いてみた。 twilight 「薄明かり」「薄暮」「たそがれ」「衰退期」「終息期」とある。 具体的にはどういう場面のことかわからない。今度はWAVEでさがした。 トワイライト(twilight)はtwiceとlightに分解できる。twiceは2つという意味なので、太陽と月。lightはズバリ、太陽と月からの光のことである。 満月の日に夕陽が沈みきる寸前に、赤黒くなったような太陽の残り日と昇ってきた月の明かりとが差し込む状態を言うようである。その状態の場所をトワイライト・ゾーンと言う。昼間と違う独特の異次元空間のような雰囲気が似ているためにあの世のこともトワイライト・ゾーンとも呼ぶという。 身近なところでサンセットを想い浮かべてみればいいように感じる。 サンライズ、サンセットどちらも好きな光景である。 ひょっとすると、5年前に無意識の中でトワイライトゾーンに出遭っているかもしれない。 7〜8時間に及ぶ頭の手術を受けた時である。覚醒するまでかなりの時間がかかった。 錯覚かもしれないが、未だ麻酔が醒めない間の夢か現かの無意識の中でトワイライトゾーンを見たのかもしれない、見えたのかもしれない、そんな気がする。確かめようもないけれど。 「トワイライト」――なにかしら幻想的で魅惑のある響きに聞こえる言葉である。 2004.1.29記 私は紅茶が大好きです。 日経新聞の「何でもランキング」で飲みたい紅茶ブランドが掲載されていた。 その順位は 1 フォション(仏) 2 フォートナム・メイソン(英) 3 ハロッズ(英) 4 ウエッジウッド(英) 5 ロイヤルコペンハーゲンティー&グルメ(デンマーク) 6 トワイニング(英) 7 レピシエ(日) 8 マリアージュフレール(仏) 9 リプトン 10 ミントンティー 聞きなれた紅茶メーカーばかりだが、4、5、10は磁器メーカーのイメージが強い。 ティーバッグが売られるようになって家庭でも朝晩手軽に飲めるようになった。 手軽さから言えばティーバックだが、私はやはりリーフ(茶葉)から入れて飲む方が好きで旨いと思う。葉の渋みを感じるぐらいがいい。 4年前紅茶の本場イギリスへ行ったとき買ったことがある。 アップル、パッション、マンゴーなどのフレーバーteaは、時たま変化を楽しんで飲む分にはよいが続けて飲むと飽きてくる。ブランド名でいうと「ウイタード」も好きである。ロンドンではウイタードの紅茶専門店をあちこちの地下鉄駅周辺でよく目にした。値段も安く、当時ダイアナ妃をイメージして作られた「イングリッシュローズ」と名付けた紅茶もあった。今はないでしょうね。 2004年1月22日。今年の初雪で南の鹿児島でも10cm近く積っている。 2004.1.22記 朝8時過ぎ、夫を送り出し何気なくNHK・BS2のスイッチを入れた。 この日はどこの国かな?と思ううちに引き込まれるように見続けていた。放送が進むにつれてその内容に関心が移っていった。胡弓演奏家・作曲家
「楊興新(ヤン・シンシン)」が中国の丹東・上海を訪ねる旅であった。 彼は3歳から胡弓をはじめて11歳ではソリストとして活躍していたが、自身も農村に3年下放され慣れない石工の作業に就いた。その時のことを“二度と胡弓演奏家になることは出来ないだろうと思った”と回想している。 その後上海へ向かい画家の次兄ともあう。10数年ぶりの上海の変貌ぶりに驚く。兄達とは10歳以上年がはなれているが芸術3兄弟である。上海では「上海ドリーム」を夢見て地方から大勢の人がやってくるという。その1人胡弓を勉強中の少女を訪ねる。地方から出てきて胡弓でトップを目指す娘と母に自分の子供の頃を重ねる。 なんとはなしに運命に翻弄された中国の「宋3姉妹」のことが思い浮かんだ。 中国の文化大革命は人の生き方を土足で踏みにじり才能ある人の人生を狂わせてしまった。解放後も苦労は続くが、不遇のうちに歿した両親の死をきっかけに心機一転のつもりで来日した。今では日本を活動の本拠地としている。 この番組を通してはじめて「ヤン・シンシン」を知った。 彼のことがもっともっと知りたくなって、ネットで検索してみた。 矢張り並みの人ではない。波乱万丈の半生である。1955年中国丹東市生まれ。日本へ来るまでの経緯は大よそテレビで知ったが、日本人女性と結婚し永住を決意した。3年後に妻がクモ膜下出血で倒れ、以後介護リハビリの必要な身となる。 また「誰でも孤独な訓練より、互いに交流し励ましあえれば、より早く回復でき、社会復帰もできるかもしれない」という趣旨で、『星の基金』を設立している。星と名付けたのは小さな星でも無数に集まれば、夜空も美しく輝かしい星空になる。障害を持った人と共に夜空を照らす月と星のように輝きのある人生にしたいという。そんな願いが込められている。 生きる姿勢も素晴らしい。自然にエールを送りたくなる。人の心を惹きつけ共感するものがある生き方だ。 胸が熱くなった。彼の音楽と生きる姿勢に感動し深い感銘を受けた。 世の中には、自分の知らないところで人に感動を与える生き方をしている人がいかに多いことか改めて知らされたおもいがする。一度彼のCDを聴いてみよう。 手記も書いている。彼のことについて、もっと知りたくて読んでみたくなった。書店に行き、楊興新著「胡弓よ、わが思いを語れ」がないか尋ねたが在庫がなかった。 (私の中で)にわかに胡弓という楽器が気になってきた。 わたしは胡弓の音色は京劇から聞いたように思うがあまりよい印象はもっていなかった。耳を劈くような音は好きではなかった。脳天に響くようで癒される音ではなかった。 サウンドも聴きたくなり彼のCD「慕情」を買い求めた。その音色は期待に違わず、説明書きのとおり心の琴線をふるわす魂の叫びを奏でている。素晴らしい音と奏法である。 東西の弦の音がうまく融合したような感じがして独特の雰囲気を醸しだしている。 2004.1.20記 ことしのウイーンフィル・ニューイヤーコンサートは、リッカルド・ムーティー指揮、元旦にNHK・BS放送で衛星中継された。 お正月は子供たちも帰省しておりLiveでは聴けないと思い、ビデオをセットしておいた。 三が日も終わり子供たちも帰京した。 夫も平常勤務が始まり、昼間は独りの時間になった。 これからが私の女(主婦)正月である。 家事もそこそこに片付けた。 大好きなムーティ指揮の「ウイーン・フィル ニューイヤー・コンサート」を視聴しようと気合をいれてテレビの前に座った。今年は音楽を聴くことよりムーティーの指揮に関心がいき、彼の表情の方が気懸かりになりそうだ。 ウイーンの楽友協会ホールが映し出された。絢爛豪華な「黄金の間」と呼ばれる大ホールである。 ムーティーが眼鏡をかけて指揮棒を振っている! 眼鏡姿をみるのは初めてである。 若々しくダンディーで身のこなしも軽やかである。 元旦に夕食をしながらちょっとだけウインフィルの画面を垣間見た。オペラ好きの長女は「ムーティーはこだわりがあって極力眼鏡はかけないのよ、眼鏡なしで登場して指揮台に立ってさっとかけて演奏がすんだら外すの、それに我が儘なところもあるそうよ」「お母さんは好きだもんね」と素っ気ない。 そのとおり好きですよ。彼の指揮する生の演奏は20年も前に一度聴いたきり、それ以来気になる存在で当然おもいいれを持っていますよ。躍動感があり、波打つような指先の動き、全身を屈伸させながら指揮する姿はやはり惚れ惚れするものがある。 ハンサムでファンも多く絶大な人気がある。外見も気にするだろう。それが彼の美学かもしれない。 演奏曲はシュトラウスファミリーのワルツやポルカなど軽快なものが多く新春気分をあかるく盛り上げている。曲にバレー(踊り)もかぶせたり、テレビで見ているものには、目から鑑賞する楽しさも加わり、より一層豪華な雰囲気も添えている。 今年の聴きどころはヨーゼフ・シュトラウス作曲「ワルツ“天体の音楽”」であった。 医師の舞踏会のために作った曲というが演出にびっくりした。天井からカメラをまわしているのだろうか。 聴きなれている「美しく青きドナウ」「ラデッキー行進曲」はアンコールの部で演奏された。“美しく青きドナウ”が始まろうとしてムーティーのあいさつに移った。 指揮者が行う新年のあいさつである。 やや長い英語のスピーチであったが、ゆっくりした速度で彼の優しさが伝わる聞きとりやすいメッセージであった 新聞には次のような趣旨のことが書いてあった。 「何十年もコンサートが続いてきたのは、シュトラウスはじめウイーンの音楽が人々の喜びや悲しみを表現しているから。喜び、悲しみ、希望をもつことは、人種や宗教、文化にかかわらずすべての人々に共通のことです。今のような紛争の時こそ、音楽が世界を一つにすることを信じ、子供たち、世界のために平和を祈りましょう」 最後のラデッキー行進曲ではムーティーは眼鏡なしで現れ、オーケストラと客席の手拍子で会場が一体になりフィナーレとなって締めくくられた。 歓声と拍手がいつまでもなりやまなかった。 彼は演奏前のインタービューでも、過ぎ去った悲しみと新しい年を迎える喜びの二面性を表現したいと語っていた。それを見事に演奏し体現したのではないだろうか。 衛星中継の放送は、ノーカットでコンサートの全容を視聴でき大満足です。 時に激しく、時に華麗なる、ムーティーの指揮にどっぷり酔いしれて独りしずかに聴いた。 2004.1.6記 南の鹿児島も寒くなりちらりと雪が舞ったりして外出もコートと手袋姿になってきた。今日は少し寒気も緩んで体を動かすことも億劫でなく、主婦にとっては忙しい年末にありがたいことです。 昼過ぎに新しい冷蔵庫が届いた。 冷蔵庫の心臓部ともいえるコンプレッサー不良によるものと分かった。 年末で配送もたて混んでおり直ぐには届きそうにない。いずれにしても冷蔵庫なしの日が生じることになる。これから新しい商品を発注すると更に空白の日が多くなるので不本意ながら店の在庫品の中から選ぶことにした。直ちに売り場へ出かけていって決めたが、それでも最短3日後着である。使用不能になって冷蔵庫なしの生活が始まった。 今や日常の生活は冷蔵庫をはじめ、すっかり文明の利器に慣らされてしまっている。特に食べることは最も日常と直結している部分です。又夏場は保存と同時に冷して食べる食感のよさに必要性を感じている。 2年間作り続けているカスピ海ヨーグルトが駄目になってしまわないかと心配したが、昨日つくり足しておいたら無事であった。3日間冷蔵庫の無い生活をした。無ければ無いでなま物を買わない・使わないで済む献立に替えればよいことである。冷蔵庫内の物を食べ急ぎ、忘れていたものの整理も出来これで冷蔵庫の年末大掃除もできた。 私が冷蔵庫を使い始めたのは結婚した時である。当時冷蔵庫は「3種の神器」(電気洗濯機、冷蔵庫、T・V)の1つであった。結婚当初高台のM団地に住み数年共働きもした。夏場は仕事がおわり坂を登り戻りついたわが家で冷たい水を飲み喉を潤すと、さ〜っと暑気も吹っ飛びそれからの家事にも実がいった。食品の保存と家事労働軽減に役立つものが出来たと感激したことが懐かしく想いだされる。 今ボーナスで買いたい「3種の神器」とは 1.DVDレコーダー 2.ノートパソコン 3.プラズマTV であるらしい 今度の冷蔵庫の容量は前のものとさほど変わらないが、違いは製氷室が別室、冷凍室は最下段になっていることです。庫内も明るく収納部分は細かく仕分けされ使いやすそうです。これから10年くらいは食生活部分でお世話になることでしょう。私もせめてそれぐらいの期間は主婦として元気で現役でありたいものです。 冷蔵庫さん、仲良くしていきましょう! 2003.12.23記 いま身のまわりに「デジタル」があふれています。 「アナログ」世代の私は戸惑うことが多い。携帯電話も3年前から持っているがうまく使いこなせないでいる。東京に住む子供達は働いているので昼間自宅へ連絡しても急用の時は用を足さない。5年前病気をしたことを機に持つことにしました。 それが常時持ち歩くことを忘れてしまうのです。身体に携帯せずハンドバッグに入れて持ち歩くので、バッグを取り替えると財布は入れても携帯はうっかり忘れてしまいます。 子供からは何の為の携帯なの?と笑われていますが・・・。それに外で常時めがねをかけなければ携帯の画面は見辛いこともあります。 今度画面も文字も大きいものへ買い替えました。今まで持たなかった夫も同機種のものを持つことにしました。今度はIモードも使うことにして携帯のメ−ルアドレスを取得しました。 腹立たしくて携帯からはメールは送りたくありませんと変な所で意地を張っています。1字ずつの文字変換も面倒です。あまり機能の多いものも厄介です 夫世代は更にデジタルに疎い、そしてやる気がありません。朝出かけ際に、“携帯をここに置いておく”と小タンスの上に乗せようとする。物を持つことが煩わしい性分です。電話の送受信がやっとでIモードはまだまだ先の話です。 ぶつぶつ言っている私ですが、目下パソコンに夢中になっているのです。ちょっと変でしょうか? 今朝テレビで韓国のIT事情について放映していました。カードを駅の改札のセンサーにかざし料金はカード決済できます。カードの入ったかばんごとでもセンサーはO.Kです。レストランでは携帯からでも支払えます。 買い物は家に居ながらにしてパネルを使って売り出しをチェックでき、それを見ながら品物を注文して配達してくれるシステムになっている。病気や用事で出られないときは重宝するかもしれません。でも手に取って触ったり匂いで判別することもなくちょっと味気ない気もします。日常生活を際限なくでデジタル化されてしまうことは如何なものでしょうか? 2006年には鹿児島でも地上デジタル放送がはじまるそうです。 あなたは「アナログ派」それとも「デジタル派」のどちらでしょう? 私は「良い加減派」としておきましょうか。 2003.12.17記 春先に、バスの車中から1枚のポスターが目に飛び込んできた。 あれッ、「トスカ」公演がある、いつだろう?ポスターの写真は「マリア・グレギーナ」に似ているな〜、聴きに行ってみたいなあと思っているうちにバスは通り過ぎてしまった。 プッチーニ作・歌劇「トスカ」が鹿児島で10月11日上演されることをはっきり知ったのは鹿児島市の広報紙上である。市民文化ホール開館20周年記念事業の催しと書いてある。 間違いなくトスカは「マリア・グレギーナ」が演じる。 彼女の生の声を聞いてみたいという想いが、日増しに強くなっていき、どうしても行ってみたい、このチャンスを逃すまいと思っていた。 オペラ「トスカ」の有名なアリア「歌に生き恋に生き」「星は光りぬ」を耳から憶えたのは、NHK番組の、のど自慢からである。ラジオ時代から「歌曲の部」でよく歌われていた。 私がオペラに魅せられるようになったのは、素晴らしい歌と芝居(演技)の両面楽しめるからです。又舞台セットや舞台衣装は時代背景も分かり易くしてくれるし、自分もその時代に生きているような、主人公になったような錯覚をして聴き入ってしまいます。そしてひと時夢見る乙女のような夢の世界へ誘ってくれます。 最後のカーテンコールでは、観衆の見守る中、舞台に上がり客席から拍手を受ける出演者は最高の気分だろうなぁと思うのです。舞台を何度も何度も出たり入ったり、それを見て私も「ブラボー!」の想いをこめて更に力をいれて拍手を送ります。この日のストーリーもも悲恋物語です。 グレギーナは来日公演もしており、テレビの画面で見ても声量があり大柄の女性に見えていました。舞台で見る彼女は互いなく長身で、どこまでも届くような豊かな声量を蓄えている美貌のプリマドンナです。 舞台でも輝いており存在感もあるので、それ相応の年齢と思っていたら意外と若く娘とさほど変わらず驚いた。 この夜は「トスカ」の中で歌われる「妙なる調べ」、「歌に生き恋に生き」、「星は光りぬ」のアリアを存分に堪能し幸せな夜でした。これからますます円熟味を増して世界のオペラプリマの1人になっていくに違いないと思った。 終演しても暫らく興奮覚めやらず、場内は歓声とどよめきが残ったままでした。 素晴らしい声の余韻に浸りながら帰路についた。 2003.11.29記 ショパンの「別れの曲」を聴くと、50年前小学6年生の時の記憶が鮮やかに蘇ってくる。 もう演奏会名は想い出せないが会場は鹿児島市中央公民館、歌い手は「大谷冽子(おおたにきよこ)」、ピアノ伴奏「田中園子」の名前だけは鮮明に覚えている。どんな曲を何曲ぐらい聴いたかも定かでない。 その中でショパンの「別れの曲」の音色は、今も耳元に聞こえてくるようである。 透き通る声で、感情豊かにちょっと哀しさも伝わってきて、なんと美しい声だろうと想った。目を見開き、心臓の鼓動が聞こえてくるような感動を覚え、鮮烈で強い感銘を受けた。 当時音楽はラジオを通して聴くぐらいで、まして鹿児島で生の演奏を聴くことなどあまりない時代であった。 彼女は80歳過ぎの現在も元気のようである 2003.11.23記 11月3日(月) 東京で会社勤めをしている次女が、連休を利用して帰省中で、この日に帰京することになっていた。2階の自室に寝ていたが、朝早くから続く電話にいつもと違う気配を感じ、何事だろうかと訝って居間へ降りてきた。両親が慌ただしく電話の応対をしている様を見て納得がいった様である。 この日は、夫の慶事ごとの正式発表があり、地元の新聞に掲載された。実はこの秋の叙勲で夫が「瑞宝小綬章」をいただくことになった。彼は鹿児島県に30数年間勤務し、S部長で定年退職した元鹿児島県職員です。今年で70歳になり、今も元気で船会社に勤めています。私は彼が数日前に新聞社の取材を受けて、記事に書かれているその内容よりも写真写りの方が気になっていたのです。 年齢からしておつむの事情が乏しくなってきており、本人も日頃からこればかりは致し方ないと思っていた。新聞を広げてみると、まぁまぁの写りでほっと胸をなでおろしそれからが、終日電話と祝電のラッシュとなった。昼前自宅を出る娘へ昼食も持たせてやれなかった。「お父さんおめでとう!又数日後に東京で会えるから」と言って戻っていった。翌4日も同じように狂騒曲のような1日が続いた。 11月5日 11月7日に、皇居「春秋の間」で天皇陛下の拝謁を賜ることとなった。 9日は東京みみずく会(高校の同期会)で留守するので、衆議院議員選挙の不在者投票を済ませる。6日は上京する日で、その準備もしなければならない。結局夕食を済ませてからになった。 11月6日 着物一式を持って4F美容室へ行き、足りないものはないか点検してもらう。近くで昼食を済ませ、贈り物をする用件もあり日本橋の三越本店へ出かけた。時計売り場を通りかかり、掛け時計を見ていたら気に入ったものが見つかり、記念に電波時計を買うことにして自宅送りにする。30年近く使って、ちょっと良いデザインのものに買い替えたいな〜と思ってもいたので、義姉妹からのお祝いを使わせてもらうことにした。 11月7日 夫は朝食へ行っている頃だ。足をしっかり踏みしめながら、怖ず怖ずと歩きながら17Fレストランまで辿りついた。顔が見えたので事情を話したら、履きやすい草履でもあり、接着剤買いに行ってくれた。 10時前にタクシーで集合場所の都道府県会館へ向かう。県の東京事務所職員に写真を撮ってもらったり、細かい日程の説明があった。 12時過ぎ13台のバスに分乗して皇居へ向けて発車した。 宮内庁職員から「春秋の間」の説明を聞く。此処では写真も撮れずメモも執れないので、聞き漏らしの無いよう神経を集中させることに努めた。 1時30分、中庭側の左手引き戸がす〜っと音もなく開く。 それからバスごとに「春秋の間」の車寄せの所で写真撮影。後ろの受章者が“ホテルに手袋を忘れてきた”と、夫人“今頃言われてもどうにもならないわよ、今朝は身支度で忙しく自分のことで精一杯でした”と。受章者も大変だが、女性も早朝からの着付けは慌ただしく緊張の連続で気疲れした。 素晴らしいロケーションが望める12Fに在り今話題の六本木ヒルズ・汐留タワー・旧ホテルニュージャパン跡に建つビル(ビル名?)・都庁等見える。となりのAホテルへ寄る。 着替えを済ませ身軽になったら、急にお腹が空いてきた。 今回上京の大きな目的の「皇居での天皇陛下の拝謁」が無事に済んで気持ちも軽くなった。 「宮中参内」と「草履騒動」のことは忘れられないエピソードになりそう。 長〜い1日が終わった。 11月8日 皆離れて暮しているとこんな機会でもないとなかなか会えそうもない。 この後2人の娘も一緒に息子夫婦の新居を訪問した。引っ越してから1ヶ月、荷物も片付いたと言う。マンションを購入したので場所確認もあって見ておきたかった。 下ってくる時ガラス張りのフィットネス室を使っている人が見えた。コミニティも完備しているようで、シアター、ライブラリー、サウンドルーム、ソシエアリーナ(パーティ、料理講習用)もあるという。又20Fには事前予約で友人や両親が来訪の時宿泊できる施設もある。 帰り途 夫――土のない所で子供はどんなに育っていくのだろう? 私――設備も整っているようだし、30代が多いとも聞くので、若い人の力と知恵で頑張ってくれるでしょうよ。 そうあって欲しいと願う。 2003年、わが家は気の抜けない色々な事が集中して押し寄せてきた感じがする。 なかでも今年最大のイベント叙勲による「天皇陛下の拝謁」が終わって、2003年は終わったような錯覚さえする。 忙しくなる師走はこれからというのに。 2003.11.23記 |