※ この旅行記は5年前の旅行を回想しながら書きました。
                       古い記述があるかもしれません。

          スペイン周遊ハイライト(回想)
  
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2002/2/2〜2/10


                

はじめに

サンチャゴ巡礼でスペインへ旅した高校の同期生(女性)Kさんがいる。
その巡礼記事と写真を、同じく高校の同期生のホームページ「みみずくサロン」に載せている。

記事の中に「ピレネー」の文字を見いだした。5年前スペイン旅行したことが鮮やかに蘇って来た。そのときの情景が懐かしく想い出される。

パリからバルセロナへ飛ぶ機上でピレネー山脈を眺めた。ピレネー山脈は、フランスとスペイン両国境にまたがるように走っている。2月である。雪に覆われた山の連なりは一目瞭然であった。
ピレネーは地理で習ったり、岡本敦夫の歌「ピレネーの山男」(ちょっと古い?)で記憶に残っている地名であった。

5年前の記憶は薄らぼんやりになっている。それでも断片的な記憶は残っている。
記憶を辿りながら、5年前のスペイン旅行を点で回想してみたいと思う。    



<バルセロナ1>

2002年2月2日〜10日 (8泊9日)、娘2人とスペインへ旅した。
この年はバルセロナのシンボル、「サクラダ・ファミリア教会」が着工して200年目の年に当たる。

東京に住む娘と一緒の海外旅行は成田発の便で出発する。
鹿児島に住む私は成田で前泊して娘と合流する。
この旅は、夜の出発便であったので珍しく鹿児島を当日発でよかった。

集合場所も第1ターミナルである。第2ターミナルと違い施設も小さく客も少ない。
今回はエール・フランス便に乗る。パリ経由でスペインのバルセロナへ入国した。日本とパリとの時差は8時間。
パーソナルTVがついている機種で、TVプログラムを楽しむことが出来た。

なんと、あのオペラ歌手、ロベルト・アラーニャ(ポスト三大テノールの一人)、アンジェラ・ギオルギュー夫妻出演のオペラ「トスカ」を放映している。往きは早朝に着いてすぐ観光が始まる。機内でしっかり寝ることにして、我慢して帰国便で見た。よい機種に乗り合わせてラッキーでした!

およそ1週間でスペインのバルセロナ→グラナダ→コスタ・デル・ソル(ミハス)→セビリア→コルドバ→マドリッドを巡った。
「バルセロナ」に着くと、すぐ観光が始まった。 サクラダ・ファミリア教会

スペイン東部に位置するカタルーニャ地方は、北はフランスに国境を接し、古くから独自の文化、言語を持つ。
こうした風土がミロ、ダリ、カザルスなどの芸術家を生み出している。

カタルーニャ地方の中心はバルセロナである。「バルセロナ」スペイン第2の都市で、世界に誇る建築家、「ガウディ」の作品、美術館など見所が多い。1992年オリンピックも開催されている。

先ず「聖ファミリア教会」

サクラダ・ファミリア教会

人々の現世の罪を購(あがな)うために、聖家族に捧げられた大聖堂である。
現在、生誕(東面)と受難(西面)の二つのファサード(外観)と、南面に栄光のファサードが作られ、ラテン十字平面を持つ聖堂の中央には、高さ150メートルの尖塔がそびえ立つ。

工事中のクレーンが空中に聳えている。
ガウディが建設を始めて200年経ってもまだ完成していないのである。いつ出来上がるのか見当もつかない。まさに神のみぞ知るである。       


<バルセロナ 2>

旅の記録をするには、先ず文章で書くことである。
それに写真を添えるとより具体的なシーンを思い出す。

4年前のスペイン旅行の頃は、デジカメを買ったばかりであった。 グエル公園
旅行のお供をさせるような技量も伴わず、お留守番と相成った。
娘が撮ったカメラ写真を頼りに旅行を回想するほかない。

写真を広げてみた。
人物入りのものが多い。
プライベート旅行の写真はWEBにUP出来ない。
そのまま使えるものが余りないことに気付いた。

スキャナーから写真を取り込む作業も手間取る。
それでも、例え満足いくものでなくとも、記憶に留めたいと思う。
グエル公園
バルセロナでは、街の中心にある「サクラダ・ファミリア教会」を見学後、
バスは、山の手にある、同じくガウディ建設の「グエル公園」へ上っていった。

ガウディの生涯のスポンサーは、グエルである。
彼は実業家であり、政治家であった。

その彼が、ガウディに英国式庭園と住宅の設計を依頼し、15ヘクタールの土地を用意した。
今は市の公共公園になっている。

グエル公園のシンボルとも言えるトカゲの噴水、
ディズニーが影響を受けたというかわいい建物が多い


<バルセロナ〜バレンシア >

バルセロナには早朝着いて、その日の宿泊はバレンシアであった。
移動時間に割かれてバルセロナ滞在時間が短かすぎた。
ピカソ美術館、ミロ美術館など見学したいところも素通りであった。心残り!

バルセロナバレンシア、約400キロ、5時間要し、暗くなってから到着した。
レストランへ直行した。レストランに入ると、天井から大きな骨付きの生ハムがぶら下がっている。

        パエリア・バレンシアーナ 

      パエリア

夕食のお楽しみは「パエリア」である。
お腹も空いている。

「サングリア」のハーフボトルと「ハモンセラーノ」、一皿をオーダーした。
母娘3人で食べても十分な量である。

「サングリア」・・・赤ワインにレモンやオレンジなどの果実を混ぜた有名なカクテル。フルーティで甘い。

「ハモンセラーノ」・・・スペインの生ハム

スペインは世界一の生ハム生産国。代表的な2種類がある。

スペイン原産のイベリコ豚から作るのが、「ハモン・イベリコ」
放牧によってドングリばかり食べさせて育ったイベリコ豚は見事な霜降り状の肉質で、2年以上熟成させる。とろけるような食感。

白豚から作られるのが「ハモン・セラーノ」
生産量が多いため、価格も手頃で、スペインでは一般的。しっかりした歯ごたえとまろやかな塩味が特徴。


「パエリア・バレンシアーナ」

日本人は、パエリャというと、まず海の幸入りのものを思い浮かべる。
パエリャは、ウサギとカタツムリ、いんげん豆が入っているのが本来の姿。
農家にある材料で作ったことが始まりで、バレンシアはパエリア発祥の地であるという。

大きなパエリア鍋に、熱々のパエリャが出来上がって見せてくれた。
黄色に染まった鶏入りのパエリャは、サフランの香りが立ち、見るからに美味しそう!

一鍋を人数分(30〜40人)に取り分けてサ−ブしてくれる。
見事な手さばき配分ぶりに流石!と眺めていた。本場で食べるパエリャは格別の味わいであった。
ちょっと焦げたところが香ばしい。


この他スペイン旅行で出合い、よく出てきたスペイン料理について2,3書きます。

「トルティージャ」・・・スペイン風オムレツ
じゃがいもが入ったものが一般的だが、生ハム、アスパラガス、赤ピーマン、ズッキーニ、鶏肉などバリエーションは豊富。どっしり厚く、しっかりと焼き上げるのがスペイン風。

「ソパ・デ・アホ」・・・にんにくスープ 
もともとは、残ってかちかちになったパンを美味しく食べるために考え出された料理だという。
にんにくをベースにパンと野菜が入っている。「アホ」は「にんにく」のこと。

「ガスパチョ」・・・トマトをベースにした冷たいスープ
自然の酸味とのどごしのさわやかさが魅力。アンダルシア地方の定番メニュー。今は全国的に食べられる。

パンには必ずオリーブ油と塩が添えられている。パンに塩とオリーブオイルをかけて食べる。オリーブオイルはフレッシュで、香りもよい。スーパーでは驚くように安い価格で売られている。重くなければ欲しい・・・小さい1缶を持ち帰ったが、色・味よし、生食にぴったり。      


 < ア〜ラ・マ チャ〜グ >

「バレンシア」はカタルーニャ地方の南に位置しスペイン第三の都市である。
地中海に面し、気候は温暖だが、どこかのんびりした町である。
世界有数の収穫高を誇る「バレンシアオレンジ」で馴染みがある。
パエリャの故郷でもある。

この日はラ・マンチャ地方を経てグラナダまで600km移動する。
1日に600km、8時間もバスで移動することは大変である。

日中は、昼食時間を除くと、殆んど終日バスに乗っている勘定になる。
それほどイベリア半島は広大である。
バレンシアの町は、町に降りてみる時間のゆとりはなかった。
その車窓から眺めるだけであった。


バスは「バレンシア」から「ラ・マンチャ」へ向かう。
車窓から眺める景色も楽しみである。
平坦な地や緩やかな丘陵地が多い。

遠景に淡いピンク色に染まった低木が見える。
まるで桜の木のように見える。

ガイドの説明でアーモンドの木と判った。
オリーブも見られるが圧倒的にアーモンドが多かった。

あぁ・・・此処は、スペイン!
ドンキ・ホーテの舞台になっている《ラ・マンチャ》の町へ。
広大な土地に白い風車が点在している。

風車

 ギター演奏・学生
此処はサフランの産地である。サフランは薬用、染色に使うが、黄色い色を出すのがサフランの雌しべである。

秋咲きのクロッカスの雌しべから採れる。


夕食の時、グラナダの医学生の演奏会があった。学資の足しにするアルバイトだという。
ギターを抱え シェリートリンド」を軽快に演奏し歌ってくれた。旅に楽しい雰囲気を添えてくれる。
   



<グラナダ〜コスタ・デル・ソル



 アルハンブラ宮殿



最後までイスラム教徒の支配下にあったグラナダは「イスラム文化」「カトリック文化」が渾然と交じり合う古都である。
観光の目玉は、世界有数の歴史遺産である「アルハンブラ宮殿」である。
アルハンブラは大きく分けて、王宮、カルロス5世宮殿、アルカサバ(城塞)、ヘネラリーフェの4つの部分から構成される。


イスラム文化の精華とというべき建築である。
「メスアルの間」は、王が政務を執った部屋。
壁面・天井を飾るアラビア模様の絵タイルや漆喰細工は見事である。その美しさに圧倒される。 メスアールの間
「アラヤネスの中庭」は、長方形の池の両脇にアラヤネス(天人花)の植え込みがあることから名づけた庭。
水面に石柱のアーチ、塔、青いアンダルシアの空を映す。


「大使の間」は、壮大なホールで、諸国使節の謁見など公式の行事に使われた。
天井の細工、壁の漆喰細工、腰壁に張り詰められたアスレホ(絵タイル)など、息を呑むような精緻なアラベスク文様の大洪水に言葉を失う。ただ見蕩れるだけであった。


王宮のハイライトは、「ライオンの中庭」
この庭と、庭を囲む部屋は、王のプライベートスペース、ハーレムで王以外の男性は立ち入り禁止。
中央に庭の名の由来となったライオンの泉が鎮座する。12頭のライオンに支えられた大きな円形の噴水がある。 アラヤネスの中庭

「ヘネラリーフェ」は、グラナダ王の夏の離宮。
水路を利用した庭園で、色とりどりの花、緑の庭園樹は美しい。
アルカサバ(城塞)からの眺めは素晴らしく、グラナダ中心部、シェラ・ネバダ山脈が一望できる。

アンダルシア地方の地中海沿いには、コスタ・デル・ソル(太陽海岸)が広がる。
1年中温暖な地中海性気候で、青空に白い壁の家並みが映えるオールシーズンリゾート地である。

夕食は海岸近くのレストランで摂った。
白い砂浜が続いているが、対岸はアフリカ大陸である。


晴れの日はアフリカが見えるという。
あいにく夜で残念! ミハス

ミハスは、ローマ時代からの古い歴史を持つ町。「白い村」と呼ばれ、白壁の家々が続く。多くの観光客が訪れる。名物のロバのタクシーも白い村に似合っている。
スペイン南部の乾燥した野原をよく見ると、色とりどりの可憐な草花が咲いている。

乾燥した気候のため、押し花にしても花の色は鮮やかである。 自然の花をアクセサリーに加工している。
  
4年前に、ミハスで購入したペンダントは、いくらか退色しているが、今も愛用している。セーターなどに合う。  


 セビリア〜コルドバ


ヒラルダの塔・展望台から
セビリア市街地

1.セビリア
セビリアは、アンダルシア地方の中心都市でフラメンコの本場。人口40万、スペイン第4位。
オペラでは、ビゼーの「カルメン」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」の舞台となった街として知られる。

コロンブスの新大陸発見後、セビリアはアメリカ大陸への旅の拠点となった。
世界一周したマゼランもセビリアから出発している。

芸術面でも、多くの芸術家を輩出している。
バロック絵画の巨匠ムリーリョ、宮廷画家のベラスケス・・

街の中心はセビリアのシンボル、「ヒラルダの塔」。 ヒラルダの塔
カテドラルに付設された高さ98メートルの鐘楼である。
街のあちこちから見えるので、迷いそうになった時は目印になる。

塔のてっぺんに青銅の女性像が飾られており、風によって向きを変えることから、ヒラルダ(風見鶏)の名が付けられた。

高さ70mのところに展望台がある。
展望台まで上った。エレベーターはない。
階段もなく、大人がすれ違うほどの幅のスロープ状の坂道を、徒歩で登り降りする。

人の流れに押されてひたすら上る。外が見えないスロープ状のらせん階段を上っている感じである。高さ70mに到達するまでの距離は長い。しんどい。
冬の2月だったので、コートを着ている。汗ばむが手に持つと重いし、ジャケットでもよかった。
戸外では風の冷たい時もあるので、旅行中の衣類調整はむずかしい。

展望台まで上り詰めると、セビリア市街の素晴らしいパノラマの眺望が広がる。上りのしんどさもいっぺんに吹き飛んだ。闘牛場も見える。ここからの眺めは、とくに夕暮れ時が美しいという。

カテドラル(セビリア大聖堂)
ゴシック様式の大聖堂。スペイン最大の大聖堂で、ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐヨーロッパ第3位の大きさを誇る。

2.コルドバ
コルドバは、中世にヨーロッパのイスラム世界の中心地として栄えた。
10世紀のころは人口100万人、イスラム、キリスト教、ユダヤの3つの文化が共存していた。イスラム教徒が去って衰退していった。

現在は人口30万人の静かな町だが「メスキータ」「ユダヤ人街」に当時の繁栄の足跡をみることができる。 メスキータ
コルドバのシンボルはなんといっても「メスキータ」である。

「メスキータ」はスペイン語でモスク(イスラム寺院)のこと。
一般にはスペイン・アンダルシア州・コルドバの聖堂を指す。
当初はイスラム教のモスクとして建てられた。13世紀に「レコンキスタ」によりキリスト教の支配下おかれてから、カトリック教会の聖堂に転用された。世界遺産に登録されている。

イスラム教とキリスト教が混じりあう異形の大建築である。
モスクはレコンキスタ(国土回復運動)後、教会へ改修されているが、入り口近くは古くからある部分という。天井を高くするために2層式にした馬蹄形アーチの赤白の模様は、白色の石と赤色のレンガを交互に組み合わせて造られている。イスラム教とキリスト教の様式が混じりあった建築物になっている。

当時イスラム教徒は、祈りの前にオレンジの中庭(パティオ)の池で身を清めたという。今はわずかに井戸だけが名残りをとどめている。2月というのに庭には落下したオレンジが積まれていた。

「ユダヤ人街」には「シナゴカ(ユダヤ人教会)」が残っている。壁や出窓に精緻な石膏模様が施され美しい。
町の南側は、人がやっとすれ違えるほどの細い道が複雑に入り組んでいる。白い壁の両側に植木鉢が吊るされ、色とりどりの花が咲き乱れている。「花の小道」と呼ばれている場所である。多くの観光客が群れている。

ローマ橋
メスキータ近くの「ローマ橋」はローマ時代に築かれた橋。
戦争の度に、破壊と修復を繰り返した。







この夜はフラメンコショーを見ながらスペイン料理を楽しんだ。
初めて見る本場のフラメンコショーは激しく情熱的な踊りである。

フラメンコ
男女ダンサーの真迫のステップは、激しさの中に、華麗で哀しく切なさを感じさせるものがある。

フラメンコ
動きを見逃すまいと凝視していた。力がはいりすぎて肩が懲りました。













スペインは、革の産地である。 「コードバン」も、地名の「CORDOBA」に由来しているとも。
コードバンは、馬の尻の部分の皮のことである。きめ細かく丈夫で、耐久性も牛皮より優れ、ランドセルに使われている。子どもの頃、コードバンの靴は高価なものという印象がある。

 レコンキスタ
レコンキスタ(国土回復運動)は、718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国征服と、それに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落で終わる。レコンキスタという言葉はスペイン語の Reconquista =「再征服」の意味である。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタという。     


<コルドバ〜マドリッド

朝食も摂らずにホテルを出発した。
早朝のコルドバ駅は、まだ夜が明けておらず待合室も人はまばらである。

スペインの新幹線「アベ・AVE」でコルドバからマドリッドまで(約2時間)乗車した。
8
11分発、列車が走り出すと、おもいおもいにホテルが用意した弁当を広げはじめた。
スペインの首都マドリッドに着いた。

スペインの首都マドリッドは人口約300万人、標高600m程のメセタといわれる台地にあり、イベリア半島のほぼ中央に位置する。他の地方へ移動する拠点としても便利な位置にある。

気候は大陸性気候で、夏は暑く、冬は寒い。政治、経済、文化の中心であるとともに、新旧コントラストのある観光都市です。

プラド美術館
マドリッド・・・真っ先に「プラド美術館」が浮かぶ。
8000
点余の美術品を所蔵し、数・質の高さは、パリの「ルーブル美術館」、ロシアの「エルミタージュ美術館」と並んで世界の三大美術館のひとつといわれている。

「プラド美術館」は、スペイン王家の私的ギャラリーから国立美術館となった。
ハプスブル家にはじまる歴代の王は、新大陸からもたらされた莫大な富を背景に、美術収蔵に情熱を注ぎ、珠玉の作品を収蔵していった。1868年、「王立」だった美術館は「国立」に。1912年に「プラド美術館」と名を変えた。

スペイン王室のコレクションの数々、中世から19世紀の珠玉の名画が集う。スペイン絵画が充実している。スペイン絵画の三大巨匠といわれる、エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケス、王室と関係の深かったオランダ・フランドルの作品も多い。

入り口も3ヵ所ある。正門には「ベラスケス」、南門には「ムリーリョ」、北門はゴヤ像前ゴヤ」の銅像が訪問者を迎えてくれる。
ゴヤ門から入場した。

なんといっても一番のお目当ては、ベラスケス(セビリア出身)の最高傑作とされる「ラス・メニーナス」である。
ギャラリーが多い。絵の物語をイメージしながら絵の前に立った。長年の夢が叶って、やっと対面できた。

スペイン王室の肖像画と自画像を組み合わせてある。5歳のマルガリータ王女やその女官、侍従など王室ゆかりの人々が一堂に会している。絵の作者ベラスケスも絵筆とパレットを持って左隅に居る。
ラス・メニーナス
国王夫妻は中央の鏡の中に映っている。ということは鑑賞者と同じ位置からわが娘を眺めているのである。奇妙な錯覚を与える、奥行のある謎を秘めた一枚である。
ミュージアムショップで「ラス・メニーナス」プリントのTシャツを購入。

エル・グレコはギリシア・クレタ島の出身だが、トレドに渡り、没するまでトレドで活躍した。
幻想と写実主義を調和させた宗教画が多い。スペイン絵画の三大巨匠の一人であるだけでなく、「もっとも純粋なスペインの魂」を表現しているとさえいわれる。
「聖三位一体」(プラド美術館)、「オルガス伯の埋葬」(トレド「サント・トメ教会」)

ゴヤはスペインの日常風景を描いた明るい作品が多いという。宮廷画家となってから「カルロス4世の家族」「裸のマハ」「着衣のマハ」の傑作を描いている。

収蔵品が多い。ツアーの限られた見学時間では有名な数点を見るが精一杯である。マドリッドに数日滞在して時間をかけて見たい! ベラスケス像のある正門からも入館してみたい。
スペイン
マドリッド市内観光は、プラド美術館見学に割かれたので、王宮は車窓からだけであった。
「スペイン広場」は、セルバンテスの記念碑が立ち、写真撮影する観光客が絶えない。スリも多いところと注意される。       







<ト ド>

トレド
マドリッドから南へ70キロのところに中世の町「トレド」がある。昼食後、マドリッドから日帰りした。
人口6万人、古都トレドは町全体が中世そのままの姿で保存されている。タホ川に包まれるようにしてたつ古郁トレドの街は、三方を川に囲まれた岩山の上にそびえ立つ天然の要塞(ようさい)都市です。
日本の京都、奈良のような町である。

歴史的には、ローマ人の支配のあと、6世紀に西ゴート族が入って来て、トレドは西ゴート王国の首都として栄えた。8世紀にアラブ旋風がまき上ると同時に西ゴートは駆逐され、11世紀までアラブ人が治めた。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は共存していた時代である。

レコンキスタに勝利して、キリスト教徒はトレドをスペインの首都に決定、1561年フェリペ2世がマドリッドへ遷都するまで常に脚光を浴びてきた。

現在トレド市はカスティーリャ・トレド県の県庁所在地で、日本の奈良市とアメリカのオハイオ州と姉妹都市関係を結んでいる。また、1940年にはスペイン政府により旧市街全体が重要文化財の指定を受け、1987年にはユネスコの世界文化遺産の指定を受けている。
オルガ伯
石畳で覆ってできたような街は、急勾配の細い道が迷路のように入り組んでいる。石畳を歩いていると長崎の坂道を思い出す。風情はあるが、冬でも急勾配での急ぎ足は大変である。

画家グレコは16世紀にトレドに魅せられ、ここに住みつき、傑作を数多く残している。
代表作ともいえる「オルガス伯の埋葬」はサント・トメ教会が所蔵する。

トレドの伝統工芸に象嵌(ぞうがん)細工・「ダマスキナード」がある。
鋳物に溝を付け、金糸、銀糸を埋め込んだもので、アラブ人(現在のダマスカス付近)が伝えたと言われている。
象嵌
その技術は武具加工に用いられ、ヨーロッパの王室から貴族、騎士等の愛用品の中に多く見られる。

本物は手づくりという。アクセサリー類も多い。肥後象嵌を思い出し懐かしい。ペンダント1個購入。

日本の象嵌細工の技術も、シルクロードを通り長崎から当時の都、京都などに伝わっているという。
戦国大名のかぶとや新鮮組の刀にもこの技術で流行の先取りをしていたとも言われている。
熊本の肥後象嵌も、遠くトレドから伝わっているという。   


<マドリッド>

マドリッド最後の日はフリーである。

自分たちの足でマドリッドの町を楽しみたいとオプションは入れなかった。

夕食だけはお目当てのレストランがあって予約を入れた。それは旅行前にガイドブックを見て知った所である。レストランでオペラ歌手のアリアを聴くことができると書いてあった。名前もズバリ、ホテル「オペラ」内のレストランで、オペラのアリアが聴ける、素敵じゃありませんか。是非行ってみたいと楽しみにしてきたのです。

もう一つは、有名なピカソの「ゲルニカ」を見ることである。

「国立ソフィア王妃芸術センター」が収蔵する。

この作品はピカソがナチスドイツ空軍によるゲルニカの無差別爆撃に憤慨して描いたものである。ピカソ作品の中でももっとも有名な作品のひとつといえる。

女3人の旅、ショッピングも、興味と楽しみである。

マドリッドのショッピングゾーンは、高級ブランドを中心にハイセンスな店が建ち並ぶセラーノ通りと、メインストリートであるグラン・ピアからソル広場にかけての旧市街に大別できる。

わたしと長女はお目当ての店があった。スペインの皮革製品は定評がある。王室ご用達の皮革ブランド「ロエベ」で、ハンドバックを買いたいと思っている。本店の在るマドリッドに来たからにゃ黙って見過ごす手はない。

この年はスエード製品が多かったが、ロエベの製品独特のあの柔らかい皮の感触に魅かれている。フォーマルに使える小ぶりで黒色に決めた。勘定を済ませてみると、なんと娘は同じデザインの色違いを買っている。このミーハー親子は、変なところでDNAが似ている?

次女はブランド製品にはあまり関心がない。それでも個性的なデザインの「シビラ」はお気に入りで事前チェックしていた。マドリッドは本店が在ると場所確認までしてきていた。地図を見ながらたどり着いた。ところが行ってみるとcloseしている。商品のある気配もなく、どこか他所へ引っ越したのだろうか、折角ここまで足を運んで来たというのに残念!

靴のブランド「ヤンコ」ものぞいた。丁寧な縫製で、デザイン、品質ともに人気があるという。
足を入れてみると確かに履き心地がよい。

生ハム

ちょっとお洒落な感じのスーパーマーケットに入った。

生ハムやユーロチョコが珍しい。
生ハムの「ハモンセラーノ」「イベリコ」は必要なだけ量りで売ってくれる。

真冬であり翌日帰国するので、すぐ食べる分だけ量ってもらった。

ユーロチョコはユーロ通貨型をしたコインチョコである。ユーロ硬貨を見ることもない頃で手ごろなお土産になった。ユーロ通貨が正式発足する直前で、スペインではユーロ、ペセタどちらでも通用した。

手にしたコインを見ていると面白い。ユーロ硬貨の裏は国毎にそれぞれデザインも違う。どこの国のものか確認することも楽しかった。

昼食は長女がガイドブックでチェックしてきたレストランで食べた。

ガイドブックを片手に探して辿り着いた。小じんまりとした店である。

本を見せると、写真掲載の若いオーナーであった。まさか本人が出てくるとは思ってもいなかったのでびっくりした。

手長えびのグリル淡白なオリーブオイル味で美味しかった。

荷物が増えたので一旦ホテルへ戻った。

薄暗くなってきたが、急いで「ソフィア王妃芸術センター」へ行った。

20世紀のスペインの代表的画家の作品、国内外のモダニズム、キュービス、シュールレアリズムなどの絵画、彫刻を集めた現代美術の宝庫である。ピカソ、ダリ、ミロなど有名作家の作品が多数展示されている。

ゲルニカ

見のがせない一点はピカソ「ゲルニカ」である。

1937年、ナチス軍によるゲルニカへの無差別攻撃に憤慨して描いた作品である。戦争の悲劇を生々しく伝えている。圧倒的な迫力で迫ってくる。


作品はスペイン内戦からフランコの独裁支配の36年間はニューヨーク近代美術館に預けられていた。ピカソ生誕百年目の1981年、スペインの人々の熱い要望で帰国。1992年にオープンしたこの王妃センターに移された。

最後の夜はレストランでオペラのアリアが聴けるところで夕食をする。

その名もずばり「オペラ」というホテル内に在るレストランである。10時になるとレストランでオペラ歌手の歌を聴けると振れこみであった。事前にガイドブックで知っていたので、オペラを観にいく時間はなくともここだけは外すまいと決めていた。

スペインを舞台にしたオペラは多い。
「セヴィリアの理髪師」「カルメン」「ドン・カルロ」・・・

先ず食事から始まった。エプロン姿でパンをサーブしている人が、歌い手さんであった。10時になると音楽が流れ歌も始まった。男女とも若い歌い手たちである。ひょっとしたらアルバイトかもしれない、歌う場を重ねてプロとして上手くなっていくのであろう。

「つばめ」「イタリア民謡」など聴きなれた曲も多かったが、曲調の違うものがある。オペラに詳しい長女が、オペラの曲じゃないと言う。私にはよく判別できなかった。戻ってから判ったが、「サルスエラ」であった。スペイン独自のオペレッタのようなものであろうか?

聴き入っているうちに12時になった。まだ聴きたかったが、明朝の帰国便が早いので残念ながらホテルに戻った。

おわりに

スペインは見るべきところが多い。至る所に世界遺産が散在している。スペイン1カ国を1週間あまりで観光するには無理である。もっとゆっくり、じっくり時間をかけて回りたかった。

北部には行かなかったが、バスク地方やサンチャゴ巡礼する地も訪ねてみたい。もう一度訪ねてみたい国である。                               

                                                                                                                                   おわり

2007.7.31

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