山陰松江・「珊瑚会」の旅

                              2007/5/22〜5/24

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松江城

 はじめに

短大を卒業して40数年になる。

還暦同窓会以後2年おきに同窓会旅行を企画している。

今年は旅行の年に当たり・山陰松江へ2泊3日の旅を楽しんだ。

昭和35年鹿児島県立短期大学(家政科・生活科学専攻)を卒業した同窓生の集いである。栄養士養成の専攻で、女性ばかり30名足らずで小じんまりしたクラス、4人は故人となっている。卒業した35年次に因んで「珊瑚の会」と名付けている。

居住地が散らばっているので、1ヶ所に集合してから出発する。
今回は「岡山」とした。

当番幹事(3人)となっていたので、準備の段階から関わった。

最終案ができるまで手間取った。旅行業者にプランを依頼したがあまりに大まかでそのまま使えそうにない。ネットで調べたり、ガイドブック、時刻表を駆使して細部を詰めていった。結局殆んど手づくりのプランとなったのである。

自分たちで手がけたプランは上出来?と自己満足。何より“ああでもない”“こうでもない”と話し合いながらのプラン作りは面白かった。そのプロセスは実に楽しかった。ひと際印象に残る旅の予感がする。


〜つづいて〜

2泊3日の旅は、島根県松江をメインに
「足立美術館見学、出雲大社、松江市内」を観光するプランである。

大半の人が初めて訪れる。
勿論私もそうである。とりわけ足立美術館を期待している。

松江といえば小泉八雲が暮らした地である。小学校?中学だっただろうか、国語の教科書に載っていた。その地に立つことも楽しみである。

山陰地方へのアクセスは不便である。
交通手段と集合地を決めるのに苦慮した。

当初集合地は大阪とした。
関東、九州、関西からの合流地として最適地と考えたからである。

此処からマイクロバスで足立美術館へ直行するルートが最短と考え、マイクロバスの手配を旅行業者に依頼した。マイクロバス借り上げ代のことを考えると多くの参加者を期待したい。

もとより少ない同窓生である。ところがキャンセルがでた。
諸々のリスクを考慮した結果、マイクロバス利用は中止し、ルート変更した。
結果、集合地を岡山として松江まではJRを利用することに決めた。

天気予報も上々、楽しい旅が始まった。     


岡山〜出雲大社

鹿児島組みは伊丹空港から新幹線・新大阪経由で岡山へ向かった。

下車しようと立ち上がったら、同じ車両に東京からの2名も乗車しているではないか。“此処よ”と合図を送って大笑い。

車中では

“ひょっとしたら東京組みも乗っているかもしれない”

“あちらは座席指定でしょうね” と話していしたが・・・まさか同じ車両とは

偶然の一致とはいえ探す間もなく合流、以心伝心でしょうか!!

岡山では倉敷在住のKさんが名物の駅弁「まつり寿司」を用意してホームに待っていてくれた。

岡山からJR伯備線で出雲大社へ直行する。

出雲大社行きの特急やくもに乗車するや否や早速弁当開きが始まった。
朝、早発ち(8時発の便で大阪へ)だったのでお腹ぺこぺこ。あっという間に見事に完食。

出雲大社までの所要時間3時間。

飛行機時代になって3時間も列車に乗ることは稀である。学生時代の修学旅行を思い出し、お喋りも弾んで高揚している。列車での旅は座席にゆとりがあり寛ぎやすい。
お腹も充ちて居眠りする人も、もちろん私も・・・

伯備線は中国山地を横断するように走っている。車窓からも緑の多い山の景色が移り変わっていく。
新緑の中にやさしい山藤が垂れている。新見あたりで川の流れの向きが変わった。分水嶺が在るところと車内放送している。珍しい地点に遭遇した。

大山

松江近くになって「大山」が見えますと車内放送。別名「伯耆(ほうき)富士」と呼ばれている雄大な大山が右手の車窓に広がっている。左側に座っていたので写真は撮り損ねた。冬は冠雪した美しい姿を見せるのであろう。

田に水が張られている。この辺りではこれから田植えが始まるのだろうか。

JR出雲駅に着いた。
駅舎の屋根も社の形をしている。

出雲大社まではタクシーに分乗して行った。参加者は8名である。8という数字は何かと便利な数である。タクシーを乗るのも好都合、人の声も届き、仲間からはぐれることもない。  

出雲市駅

出雲大社

拝 殿                      
 本 殿                     

出雲大社は縁結びを中心に、開運招福などいろいろなご利益がある神社として広く知られている。

大国主命が天照大神に出雲の国を譲った際、見返りとして建てられたとされている。

27,000uの境内には、本殿を中心に拝殿、摂社、文庫、宝庫、彰古館などが建ち並ぶ。本殿は大社つくりの代表建築で国宝に指定されている。

タクシーから降りたところがバスセンターターミナルで入り口が分からない。案内所で聞いて胴鳥居から入っていった。ここをくぐると正面が拝殿で、その奥に本殿がそびえる。

参拝は拝殿を起点に反時計回りが基本という。

「拝殿」は屋根に銅版を葺いた総檜造り、正面の大しめ縄は長さ8m、周囲4m、重さ1500kgと巨大である。

出雲大社の拝礼は「二拝(礼)、四拍手、一拝(礼)」が基本。4回拍手を打つのはしあわせという語呂にも通じる。お賽銭は「しじゅうご縁がありますように」という意味から、45円が基本になっている。

車中でガイドブックを読んで仕入れたにわか知識、咄嗟に金種のやりくりもつかず、100円入れて招福倍増祈願?

「本殿」の八足門(やつあしもん)から参拝した後、東側の端垣へ。ここから本殿の全景を仰ぎ見ることができる。だが端垣越しに見る本殿は屋根部分しか見えない。しかも逆光でシルエットを見ているようである。神秘的に見えよかったのかもしれない。

彰古館(出雲大社の資料展示)、神枯殿(宝物殿)も見学したかったが、閉館時間も近くなり外観だけ見ることに。

銅鳥居を出ると、左手に、神霊が宿る玉を海から大国主大神が受け取る神話を再現した「大国主大神(おおくにぬしたいしん)」と「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」の像が建っている

真ん中には、松の馬場があり見事な松の並木の参道が続いている。上り坂になっており上がりきった所で正門鳥居に出た。逆行してしまいました。順序としては先ず正門鳥居から入るべきでしたね。

徒歩で一畑電鉄の出雲大社駅へ向かった。            


出雲大社〜宍道湖畔温泉

出雲大社までの往きはJR山陰線で宍道湖の南岸を走ってきた。有名な玉造温泉周辺を通過しているが眠っていました。

戻りは一畑電鉄で宍道湖の北岸に沿って今夜の宿が在る松江宍道湖温泉まで乗車する。
こちら側は、美術館やアミューズメントパーク、古刹、立ち寄り温泉などが点在する。

往復の電車で、おおまかに宍道湖を一周することなる。

出雲大社から松江宍道湖温泉までの所要時間は約1時間。直行できるのかと思っていたら川跡(「かわとう」と読む)で乗換えである。
ローカル線らしい2両編成の黄色い車体である。

乗って一駅過ぎたあたりで、車体が激しく揺れる。間無しである。乗客の頭はまるで首振り人形のように上下に揺れ、上半身はスイングしている。揺れが止まるかと、必死に笑いを堪えようとするが可笑しくてオカシクて・・・

2駅間ほど揺れっぱなしであった。辺りは指宿沿線を走っているような風景である。人家も少ない長閑な田園地帯であるのに?

揺れも止んで、3〜4駅目に停車して発車まで時間が掛かると思った。走り始めたら座席を動いた憶えもないのに、今まで右手に見えていた宍道湖が突然左手に現われた。スイッチバック?坂もなく平坦な湖畔を走っているのにどうして?

降りてから、この謎解きが大変であった。意見続出、宿に戻ってからも続いた。

理屈が分かると簡単、大真面目に一時は真剣に悩みました。
湖畔に沿って走る軌道は急に曲がれない。引込み線に入って進行方向が逆になったに過ぎない。

「運転手は分からないようにために車内は通らなかったのかしら?」

「否、見えないように外を通ったのかも」

一畑電鉄

「ここで運転手が交代するポイントだったのでは?」

手前勝手な推量で大笑いして楽しかった。

キーワード:「一畑電鉄」

車内の大揺れと進行方向逆行でトリックに掛かったような大間抜けのこの錯覚・・・

宍道湖畔を走る「一畑電鉄」のエピソードは忘れられない。

宍道湖北岸を走る一畑電鉄の方が、軌道はより湖畔に沿って走っている。

車窓から湖面を眺めながら宍道湖のパノラマを楽しんだ。

陽も薄くなってきた。

今日はよく晴れた日である。宍道湖の夕陽は期待できそうである。   


宍道湖の夕陽

今夜の宿は松江宍道湖温泉駅近くの「なにわ一水」、

すべての客室が宍道湖に面して美しい風景を一望できると謳っている。

宍道湖は松江のシンボルである。

全国第6位の面積を持つ天然湖。宍道湖の円周は約45キロ、真水と海水が混ざりあった汽水湖で水深34メートルと以外に浅い。「宍道湖七珍」といわれる蜆(シジミ)、鱸(スズキ)、モロゲエビ(テナガエビ)、アマサギ、鯉(コイ)、鰻(ウナギ)、白魚(シラウオ)を使った料理は名物となっている。夕食にも何品かサーブされるかもしれない。楽しみにしておこう。

叉夕陽の名所として知られている。

宍道湖の中に、松の木のシルエットがきれいな嫁ヶ島という小さな島が浮かんでいる。その嫁ヶ島の向こうに沈む夕陽の風景は、特に名高い。是非とも湖面を真っ赤に染めて沈む夕陽を見たい!

今日の日没は7時過ぎだという。ぐずぐずしている間はない。

チェックインを済ませたら、すぐさまこの春完成したばかりの宍道湖夕日スッポトへ繰り出した。

宍道湖畔の夕陽スポットは、湖畔に沿って階段が造ってある。人出は思いのほか少ない。秋の夕陽がきれいと聞く。暮れなずむ中、階段に腰掛けた。日没まで30分あまり、夕陽の沈み行く様をゆっくりと鑑賞した。空と雲と湖水の色が刻々と変わっていく。期待していたとおり、絵画のように美しい夕景であった。

遮るもののない宍道湖の湖面を真っ赤に染めて沈む夕陽に、只々息を呑んで見蕩れてしまった。 

嫁が島の松は絵を見るようで絶好の位置に在る。湖面にシルエットとなって映っている。

人工的に造られたのかと思ったがそうではなかった。         

湖に落ちて亡くなった若い嫁の身がらとともに浮かび上がったという悲しい伝説の島である。

                                  宍道湖の夕陽

足立美術館

今日のスケジュールも「足立美術館見学」、「松江市内観光」と目一杯で忙しい。

足立美術館は一度は訪れたいと思っていた所である。

横山大観(常設)、榊原紫峰(特別展)を楽しみにしてきた。

思い立っても足の便が悪いとなかなかであるが、いい機会に恵まれた。

今夜の宿に荷物を預けて、松江発(857)のJRで安来駅へ向かった。

安来駅から美術館までは無料シャトルバス(約20分)が運行されている。

庭園

足立美術館は、

*        横山大観コレクションをはじめとする数々の近代日本画。

*       北大路魯山人、河井寛次郎の珠玉の陶器。

*        13千坪の広大な日本庭園

を有する、名園につつまれ、名画に染まる美術館として知られる。

何故、足立美術館には多くの横山大観の作品があるのだろう?

創設者で地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう)と深い関わりがある。

経歴の中にも

彼は家業の農業を手伝っていたが、紆余曲折、様々の事業を興し、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、いつしか美術品のコレクターとして知られるようになっていた。

また若い頃から何よりも好きであったという庭造りへの関心も次第に大きくなっていった。そしてついに昭和45年、71才の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設した。

大八車を引き、まったくの裸一貫から、日本一の大観コレクションを有するまでになった足立全康は、大観に心酔し、共に辛酸をなめ尽くしたというだけでなく、その発想の非凡さ、着想の素晴らしさ、旺盛なる行動力において相通じるところがあったのであろう。

S54年に、「紅葉(こうよう)」「雨霽る(あめはる)」「夏」をはじめとする大観の作品群を一括購入している。

91才で亡くなるまで世界の足立美術館にしたいという夢とロマンを持ち続けた。

彼は出会った絵画といわず、庭園といわず、人といわず、それは、「美しいものに感動する心」を何とかして人に伝えたいという心が、足立美術館の隅々にまで息づいていると言えるのではないだろうか。

生の額縁

「庭園もまた一幅の絵画である」-―創設者・足立全康の言葉。

順路に沿って進んでいった。1Fの通路からは

歩を進めるたびに眼前に閑雅な枯山水庭、白砂青松庭、苔庭、池庭・・・と

創設者の庭づくりへの情熱が生き生きと伝わってくる。

生の掛け軸

庭の景観を背景とする「生の額縁」、「生の掛け軸」の発想には驚いた。

庭園美を1枚の切り取られた絵画、掛け軸として眺められるのである。

F

大展示室で、横山大観特別展、特別展示室である。

130点を超える横山大観コレクションは著名で、常時20点前後展示している。

「紅葉(こうよう)」、「雨霽る(あめはる)」、「無我」・・・多数の作品が展示されている。

とりわけ「乾坤(けんこん)に輝く」・85才に魅せられた。

特別展は「榊原紫峰展」であった。

庭園

冨貴を数多く描いている。時節柄「青梅」2枚は緑の濃淡が目に優しく映る。

茶室「寿楽庵」では、生の掛け軸越しに庭園を眺めながら抹茶をいただいた。

足立美術館は、都会の喧騒を逃れ、正に名園と名画の絶妙なる調和のとれた心癒されるところである。

昼食は名物の出雲そばを食べ、松江(JR)へ戻った。      


松江市内

「堀川めぐり」「松江城」

堀川

午後からの半日で松江市内観光しなければならない。

日中のうちに急ぐべきは「堀川めぐり」である。

駅から松江城大手前広場の乗船所までタクシーで移動した。

堀川は松江城築城の際造られ、城を守り、物資の輸送や人の往来、生活用水に使われ、漁場でもあった。


「堀川めぐり」
は松江城の堀(約4キロ)をぐるりと巡る遊覧船(13人乗り)である。16の橋をくぐり抜け、城や塩見縄手、豊かに茂った緑、武家屋敷周辺などを眺めながら水の町の風情を楽しめる。緑の多い内堀から、中堀、外堀と巡って所要時間は約50分。

船頭さんは歌ってくれたり、名調子の観光案内の説明は上手い。楽しい時間を盛り上げてくれる。

左右にゆっくり目を遣りながら水郷らしい情緒ある風景がつづく。

橋をくぐるときにはそのまま通れないので屋根の部分が降りてくる。通り過ぎるまで頭を下げて苦しい姿勢でガマンです。スリルがあって楽しい。

堀川

情緒あふれる町並みを船上から眺めていると旅情をかきたてられる。

堀川めぐりの遊覧船を下船したところは松江城の大手前広場である。

その足で松江城へ向かった。

「松江城」は山陰地方に唯一現存する天守閣。中心の天守閣は外層5層、内部6階。桃山初期の雄大かつ端正で美しい姿を今に伝えている。

千鳥が羽を広げたような千鳥破風の屋根が象徴的なことから「千鳥城」とも呼ばれている。

石段を上ったところに黒い壁の松江城が聳え立つ。城の上に人影が見える。

よくもあんなに高いところまでと思いながら、でも上ってみたい!

人の流れに沿って城内へ入った。城内に展示してある資料城独特の造りや仕掛けを見学しながらマイペースで最上階まで上った。

2年前の秋に京都旅行をしている。上りながら京都南禅寺の山門の急勾配の階段を思い出した。

最上階は望楼になっている。松江城

松江の市街を見下ろす絶好のビューポイントである。

360度の視界を独り占めできる。絶景

ここから松江の街並みを一望できる。絶景!

階段のぼりで汗ばんだ体に心地よい風が流れる。爽快!

素晴らしい景色を眺めることが出来、階段を上った甲斐があった。下りは早かった。

これから徒歩で「小泉八雲記念館」へ向かうことに。   


松江市内

「小泉八雲記念館」

八雲館

自分たちの足で歩く松江市観光である。

松江城を後にして「小泉八雲記念館」へ向かって歩き始めた。その都度道順を聞いていくマイプランの旅は急かされることもなく楽しい。

城内公園は緑が多く木漏れ日の道を下った。松江城の北堀沿い400メートルの通りには小泉八雲記念館、武家屋敷、田部美術館など見所が多い。松江市の伝統美観地区に指定されている。緩やかなカーブを描く通りに沿って、黒い板塀と武家屋敷が続く。堀川沿いには老松が連なり江戸時代の景観を色濃く残している。

塩見縄手

塩見縄手といわれるところである。

城郭の構えを定めるとき、まず縄張りをして塁壕(るいごう)などのなどの形態を区画した。
城下町では、縄のようにひとすじにのびた道路のことを繩手(なわて)という。

堀川めぐりでも眺められる塩見縄手は、松江藩の中級藩士の武家屋敷や白壁などの江戸時代の景観を色濃く残す道。日本の道100選にも選定されている。

「小泉八雲記念館」へ入る。

小泉八雲については教科書(小中学のいずれかであった)に載って知り、「怪談」の著者であると断片的な知識しかなかった。彼が居住した松江を訪ね、記念館を見学できることはうれしい。

彼が松江に居住したのはわずか1年余りに過ぎないが、古い町並み、神話と伝説が数多く残る松江は彼の感性を刺激し、怪談やエッセイに登場させるなどその後の執筆活動の基になった、

現記念館は、伝統美観保存指定区のため木造平屋和風造りである。常設展示室、書斎、企画展示室などを備える。

小泉八雲記念館には、彼の直筆原稿や遺品を数多く展示している。絶筆を含む書簡、机や椅子、衣類、キセル、ほら貝、望遠鏡などの愛用品、妻セツの英単語の覚え書き帳など約990点。八雲の仕事ぶり、2人の生活を偲べる。小泉八雲の全てがわかる記念館になっている。

その中でも脚の長い机が目に止まる。何故そんな机が?と思うが、それは目が不自由であった八雲が原稿を書きやすくする為であったと云われる。

展示品が多く説明文も隈なく読みたいが時間が足りない。セツが英単語の練習したノートが鉛筆書きで残っている。

八雲像

小泉八雲の胸像が塩見縄手公園に建っている。

この世を去った新宿区の公園にも胸像があるという。

ギリシャの島レフカダに生まれ、新宿区でこの世を去っている。レフカダ町と新宿区は、この縁をもとに198910月友好都市となり、彼が没したこの地に小泉八雲記念公園をつくった。ギリシア政府が胸像を贈っている。機会があったらこちらの公園にも行ってみよう。

熊本にも住んでいるから彼の足跡が残っているに違いない。訪ねてみたいものである。

彼の生きた時代は外国へは船旅の時代、松江から熊本までも汽船で移動している。アイルランド→アメリカ→松江→熊本→東京へと移り住むことは容易なことではない。

来日して20年足らず、54歳の若さで逝去している。日本の伝統的精神や文化に興味をもち、目が不自由であったにも拘らず執筆活動を続け、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介した。

彼の生涯を簡単に述べよう。

本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn

1850627日ギリシアのレフカダ島(リューカディア)でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生れる。2歳の時、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。


16
歳のときに怪我で左目失明、それ以来晩年に至るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写るようにしなかったという。

17歳の時父の病死、翌年に大叔母の破産など不幸が重なり退学する。
19
歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となる。

明治23年(1890年)39歳の時特派員として来日するが、同年、英語教師として松江中学に赴任する。小泉セツと結婚し武家屋敷に住んだ。

しかし、冬の寒さと大雪に閉口し、1年3ヵ月で松江を去り熊本第五等中学校へ移り、さらに神戸のクロニクル社、帝国大学(東大)、早稲田大学に勤務した。

明治29年(1896年)帰化し、上京して東京帝国大学で英文学を講じる。

名まえの「八雲」は松江市に在住したことから、そこの旧国名の出雲にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむといわれる。

日本の伝統的精神や文化に興味をもった八雲は、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介した。

明治37年(1904926日、狭心症のため54歳で逝去した。


松江市内

「ぼてぼて茶」

小泉八雲館ではそれぞれに興味深く見学して、時間も費やした。5時で閉館するところが多く見学できるところも限られてきた。城へ上ったり歩いたので喉も渇き一休みしたい。道沿いの「武家屋敷」を見てから近くの茶屋へ。


メニューを見ると出雲地方に伝わる「ぼてぼて茶」がある。迷わずこれに決まり。

名前だけ知っているが、どんなお茶だろう?と興味津々。

ぼてぼて茶

出てきたお茶は写真の通り、

これがお茶かしら?一見して薄いお粥のように見える。

おこわ、煮豆、刻んだ漬け物などの具を盛った小皿が付いている。箸は使わず、茶碗の底を叩いて片寄ってきたら具とお茶を一緒に流し込む。お茶を飲むというより、具を噛むので食べると言ったほうが合っている。風流には違いないが、あまりおいしいものでもない。

此処堀川沿いの茶屋は、オープンテラスのようになっている。川面から流れる風が心地よい。塩見縄手の情緒ある景色を眺めながら旅情たっぷりである。

「ぼてぼて茶」は、

奥出雲の製鉄職人が、高温過酷な作業の合い間に立ったまま流し込んでいた労働食だった。

不味公(ふまいこう)の時代の非常食だった。

上級階級の茶の湯に対抗して庶民が考え出した趣味と実益を兼ねた茶法だ

ともいわれる。

作り方は

番茶を茶碗に注ぎ、長めの茶筅で泡立てる。このときの音からユーモラスな「ぼてぼて茶」の名がついたとも。泡立てた茶の中に少しずつ具を入れれば出来上がり。

不味公(ふまいこう)について

不味公とは7代藩主・松平治郷(まつだいらはるさと)のことである。

藩の財政危機を、人材登用、治水・農業振興に力を注ぎ、出雲焼き、松江塗りなどを奨励して藩財政を立て直した。優れた茶人でもあった。独自の「不味流」を起こし大名茶人としても名を高めた。菓子、料理にも独特の趣向をもち、その美意識は「不味公好み」という言葉に象徴される。

現在に至るまで受け継がれ、松江にはお茶を一服できるところが多い。     

塩見縄手

松江市内〜それぞれの家路へ

観光名所は5時で閉館のところが多い。5時をまわっているので無理せずに観光はやめた。夕食会場近くへ移動して付近を見ることにする。

夕食は、昨日タクシードライバーに「鯛めしがおいしいところ」と聞いていたので4時ごろ予約を入れた。

行き当りばったりの感はするが、2日目の夕食は事前に決めず、敢えて現地に行ってから決めようと幹事で話しあった。というのも少人数だと融通も利く、名物といわれるものが必ずしも美味しいわけでもない、ハズレだってある。

幹事役としてはちょっといい加減ですね。皆には居酒屋風かもしれないからあまり期待しないでと伝えて、そのつもりでいた。今夜の宿の直ぐ近くである。

ところが行ってみると格式のありそうな表構えで立派な料亭風じゃありませんか。くたびれた旅姿ではちょっと尻込みしそうな老舗旅館である。夕食はその1Fにある庭園茶寮「みな美」である。

店構えからして御代のほうも高いのでは?と思ったが杞憂にすぎなかった。

定評の「鯛めし」もあるコースメニューをオーダーした。

鯛めし

鯛めしは絶品であった。

個々に熱々の釜ごと運ばれた。

蓋の上に添え書きの紙片が乗っている。

“炊き上がりの時刻。時間までは蓋を開けないでください。炊き上がったらシャモジで混ぜてから茶碗に移して召し上がりください。”

東京から参加の友人は東京にお店はないの?と尋ねると、以前銀座に出店していたが今はないという。残念がった。

飛び込みのようにやって来たところで、思いがけなく美味しい嬉しい夕食に出会った。みんなの顔も満足気で綻んでいる。よかった!

食事が終わってロビーを眺めた。色紙が飾ってある。島崎藤村、与謝野晶子、松本清張、曽野綾子・・・錚錚たる文士の名まえがずらり・・・

彼らが宿泊したところとはつゆ知らず、知らぬが仏とは正にこのこと。

今夜の宿は夕食したところから歩いて1〜2分、ビジネスホテルである。

「珊瑚の会」の同窓会旅行ではビジネスホテルを利用することもある。女性ばかりの気心の知れた仲間である。いつもはツインが多いが、今回は全員シングルにした。ネットで予約したら格安の料金ですんだ。

翌朝、松江〜新大阪間(4時間30分)を高速バスに乗って、それぞれの家路につく。シングル利用は、マイペースの睡眠をとり時間を過ごせると考えてのことである。

お土産の整理をしたり、宅急便を発送したりで2日目の夜も暮れた。

3日目、松江駅830発の高速バスで新大阪駅へ向けて出発した。

乗車時間も4時間30分と長いが、島根、鳥取、岡山、兵庫県と4県をまたがって走行している。

新大阪駅で大阪名物「お好み焼き」を一緒に食べて解散、それぞれの家路についた。寄り道組み(友人や子どもさんとの約束)と別れ、伊丹空港から帰鹿した。


おわりに

二泊3日の「山陰松江へ同窓会の旅」は、今回も楽しく想い出に残るものとなった。

今回は幹事で作った手づくりに等しいプランの旅行をした。

貸し切りバスやガイド無しでの観光は、まわれる場所と時間は限られ、確かに効率は悪い。反面時間に急かれて消化不良の観光になることも避けられる。

年齢を考えると少しゆとりのあるスケジュールがよい。幸い松江市は中心部に観光地が集中している。徒歩やタクシーで移動出来る圏内にあることも好都合であった。

2年後の旅行と再会を期したい!!         おわり          2007.7.24記

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